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教会が寄留者として生きるということ |
管区事務所総主事 司祭 サムエル 輿石 勇 |
例年通り、恩師からクリスマス・プレゼントに一冊の本を頂きました。毎年ジャンルの違う本をお送り頂いておりますが、ご高齢なのに昔と変わらないその先生の知的好奇心に、ただただ敬服するばかりです。 さて、今回頂いた本は、福音書を書くために用いられた資料(イエスの言葉集)を分析し、それと考古学の研究成果を用いて、ガリラヤにおけるイエスの運動を再現しようとする研究を内容としています。その本によりますと、イエス時代の特徴のひとつは、丁度現在と同じように、地中海諸国の民全体が断片化されて各地に散らされ、出身地ごとの小さなグループに分かれて、生活していたというところにありました。つまり、ガリラヤでも寄留者が出身地ごとにかたまって身を寄せ合うように生きており、このような人々の間に先ずイエスの運動が広がっていったのだと著者は考えているようです。 奇しくもと言うべきでしょうか。この本を読んでいるさなかに、パリッシュ(教会区)という言葉が、「寄留する」という意味のギリシァ語に由来するということを、教えられました。私はかつて旧約聖書のひとつの重要なキーワードとして寄留者について少し勉強したことがありました。しかし、「寄留者・旅人」としての教会という考え方が、イエスの運動にまでさかのぼる可能性に初めて思い至りました。その本の述べるイエス運動の担い手こそ、まさに寄留者に他ならないからです。 寄留者の本質は土地を所有しないことにあります(レビ 25:23)。寄留者・旅人は、まさに「仮住まいの身」ですから、現在住んでいる場所とは異なる文化や価値を身に帯びています。したがいまして、教会が寄留者であるとすれば、教会は自らが置かれている文化と同化することなく、常に違った価値を体現しているということになります。 私たちは今、人間を収益性だけで評価する単一の文化が世界中を支配する時代を生きています。人間はこれまでも常に競争社会を生きるよう強いられて来ましたが、弱肉強食という原理が今ほどあからさまな時代はかつてなかったのではないでしょうか。 アフリカでは老若男女を含む膨大な数の人々が栄養失調や薬品の欠乏のために死んでいます。東欧やタイでは若い女性や子どもたちが性産業に売り飛ばされています。日本では、人口を一方的に流出させるしかない地方の市町村に取り残される人々、失業のために離散した家族、無知のために犯した罪のゆえに死刑に処せられる人々、安全なはずの家庭で暴力の被害者となる女性や幼児、もやもやした怒りや敵意のはけ口にされる人々などがたくさんいます。これらは全て支配的な立場にある安全な人々から見棄てられ、壊れやすい土の器にとって苛酷すぎるほどの重荷を負わされている人々です。このように人間を見棄てる文化の中で、寄留者である教会は一体どのように生きるべきなのでしょうか。 これまで(冷戦構造の中では)支配的な文化に対抗するためには、反体制グループの側に立って「ノー」と言っていれば済んだかも知れません。しかし、今や、誰であれ、自分のよって立つ価値を体現しない限り、何を語っても信頼を得ることが非常に困難になっています。寄留者であるキリスト者たちははたしてどのような価値を生きるのでしょうか。 聖書の信仰を生活の根拠とする者にとって、全てを創造なさった方、したがって、全てを所有しておられる方が神ご自身であることは改めて申すまでもありません。その信仰に立つ者は、人の目にはどのように映ろうとも、神に与えられたどの被造物の命をも等しく尊いものとして慈しむこと以外に、尊重すべき価値はないのではないでしょうか。それは、キリスト者自らが寄留者であるゆえに、被造物全ての命の壊れやすさを感受せずにはいられないはずだからです。 |