2000年新年メッセージ

  東京教区新年礼拝説教

 皆さん新年おめでとうございます。今年は紀元二〇〇〇年、キリスト降誕から第三回目の「ミレニアム」の始まりです。「ミレニアム」とは、「千年」という意味ですが、聖書でも黙示録に「千年」の記事がでてきます。悪魔(サタン)が底なしの淵に閉じ込められて、封印されている期間が千年ということです。千年の後再び解放されて姿を現わして、諸国の民を惑わそうとします。今年は竜年ですが、このサタンも竜の姿です。今の世界の現状は人々の心を惑わすサタンが動いているような感じでもあります。しかし、同時にキリストが世界を支配するメシアの「千年王国」も出てきます。聖書では災いの期間と祝福の期間両方のミレニアムがあるようです。

 キリスト降誕後、最初の一〇〇〇年のミレニアムの終わり(九九九年)は「これで世の終わりが来るかもしれない」といううわさが広まり緊迫感があったようです。二度目の千年の終わり(昨年の一九九九年)、「Y2K」でいくらか緊張しましたが、たいした災害もなく第三のミレニアムを迎えることになりそうです。今年は、またジュビリー(ヨベルの年)の二〇〇〇年です。神の恵による解放の年です。わたしたちはサタンが支配するような世界の中で、神の恵みの徴を見いだして、それを証ししていかなければなりません。
 新しい年を迎えるにあたり、振り返りとこれからの展望を黙想したいと思います。私は「平和」ということと、「小さい者たち」ということを強調するつもりです。

平和の実現を祈る

 昨年来、何度かふれましたが、二一世紀を迎える教会は、世界の平和の実現のために祈り、そのために仕えることが一番大事な使命であると思います。
 第一のミレニアムから第二のミレニアムに進む歴史の過程で、世界は中世から近世に変わりました。その変化はひとことで言えば、神が主体の時代から、人間が主体の時代に変わったということです。人間と神との関係が分離したばかりでなく、いろいろな分野で分離と自立が進みます。同時に対立と闘争が激しくなります。
 人間が宗教の束縛から解放され、人間が自分の知識(科学)と意志で自由に動くようになります。神がいなくてもやっていける世界になります。また自立の精神が強まりますから、それぞれ自分自身の信仰や意見が中心になります。人間の自由が強まり、知識も進歩したと思いますが、同時に人間と神との関係、人間と自然との関係、人間同士の関係(人と人)、また国と国、民族と民族、宗教や宗派や教派の分裂と対立が激しくなりました。
 このような動向に対して、二〇世紀は、お互いに和解と一致を回復する努力が、政治の世界でも宗教においても、進められました。しかし、それよりも自己主張の方がどうしても強くなり、戦争や抗争、人間の自然破壊による災害、さらに人間自身が自分が何者だか判らなくなり、自分の内面にも分離が起っていることに気付くようになりました。時代が進めば、世の中は良くなるという近代の信仰もあやしくなりました。天国への道が見えなくなり、時代を導く預言者の託宣が聞けなくなりました。迷いと不安が起こっています。

わたしたちのためのしるしは見えません。
今は、預言者もいません。
いつまで続くのかを知る者もいません。 (詩74・9)

 第二のミレニアムから第三のミレニアムヘの移り変わりの時代も、この詩篇の言葉の通りの時代です。他のメシア、偽の預言者が現われた時代です。現代もメシアや預言者らしい人が現われると、飛びつきます。怪しい宗教が広まる時代になりました。「わたしの教えに従えば、超能力が与えられる」と宣伝する異能者に、科学や哲学を学んだ人でも、熱狂的な信奉者になってしまうような時代です。「ミレニアム」と共に「カリスマ」という言葉が流行る時代です。洗礼者ヨハネが出現し、イエスが誕生した二〇〇〇年前のイスラエルも、このような時代でした。まさに、「わたしたちのためにしるしは見えない」という、詩七四篇に唄われているような時代です。

 プエルト・リコの首都はサン・ファンです。「聖ヨハネー洗礼者ヨハネ」の意味です。カリブ海の海岸にある美しい、また忙しい南国のかつて植民地であった近代都市です。海岸と町の間にハイ・ウェイが通っていて、その向こうに大きな洗礼者ヨハネの銅像が町に向かって建っています。ややうつむき加減に、左手を上にあげてその指は天を指しています。町の人々に向かって「わたしではなく、目を天に向けなさい」と叫んでいるようです。
 イエスの誕生の時と同じような喧しい社会で、洗礼者ヨハネが荒野で叫んだように、あまりにも、目先の利益と快楽に目を向けている世界で、教会は、すべての人に神のいます天を仰ぎ見るように叫ばなければなりません。人々に、そして私たちも、生きる方向を変えるように、洗礼者ヨハネのように「悔い改め」の叫びに聞かなければなりません。
 洗礼者ヨハネが指差す方向に目を向けたものが、そこに見たものは神の救いのしるしです。ベツレヘムの馬小屋に生まれた幼子の姿をとる救い主イエス・キリストです。神の民が待ち望んでいたメシアは、富と権力者を持つ王様の姿でなく、無力な最も小さな幼子の姿をとって現われたのです。そのことを主イエスの降誕と顕現の出来事は伝えています。
 現代の二一世紀を迎える私たちの社会の多くの人々は、この世的な大きなもの、高いもの、力強いものに救いを求めている社会です。年末に銀座の数寄屋橋を通りました。大勢の人が行列を作って並んでいるのを見て驚きました。宝くじを買うために並んでいるのです。ここはくじがよく当たる売場らしいのです。もし何億のお金が手に入れば、人生も変わるかも知れないと思いながら、私もちょっと並んで見たいという衝動に駆られました。

 見通しが暗い、不安な生活を少しでも生き残れるめどを求めている人が多いようです。何の不安もないエデンの園の生活を追放されて、いつまで生き延びられるか見通しがなく、自分の労働と蓄えしか生き延びる手段が無くなった最初の人間、アダムと同じ状況がまだ続いているのです。
 神から隠れようとするアダムに対して、「おまえはどこにいるのか」という神の憐れみの問いかけです。毎年クリスマスに読まれるヘブライ人への手紙の冒頭には

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、み子によってわたしたちに語られました。
(ヘブ1・1~2)

と書かれています。
 「お前はどこにいるのか」という言葉は、旧約の歴史では預言者を通してずっと問いかけられて来たのです。預言者がいなくなった時、洗礼者ヨハネが現われ、神はみ子イエスをこの世に送って、人類救済のみ心を貫徹されたのです。そのみ子の生まれたみ姿は「最も小さいもの」であり、それを最初に「神の救い」と信じて礼拝したのも「最も小さいものたち」だったというイエス降誕の出来事を、もう一度見直さなければなりません。

自分自身が小さい者になること

 一九九〇年以降の東京教区は「小さな者との出会いと奉仕」を宣教方針にしてきました。小さい者に仕えることは小さい者を大きい者にする手助けをすることではありません。私たち自身が小さいものになるように務め、私たちとの関係を変えることです。
 私たち自身もともとは小さいものであります。しかし、わたしたちは小さいものであることをやめて、この世の力と富を貪欲に求めて、それを身につけてしまったのです。そこで「小さい者」を軽蔑し差別するようになりました。小さい者に関心を向けるようになっても、お互いに共に生きる交わりを持つことが難しくなっています。わたしたち自身が小さいものになる必要があるのです。
 旧約の預言者は神から離れた民に対する神の裁きと滅亡を預言しました。しかし、その中で「残りのもの」について語ります。神の残れる民は「小さなものたち」なのです。人間・アダムへの「どこにいるのか」という神の問いかけに、耳を傾け、答えたのが小さな人々です。

 ゼファニヤの預言を読むと都エルサレムの罪が指摘され、神の激しい怒りによって、地上が焼き尽くされるという預言を彼は語ります。そしてその中で、

わたしはお前の中に
苦しめられ、卑しめられた民を残す。
彼らは主の名を避け所とする。 (ゼファ3・12)


 「苦しめられ、卑しめられた民」とは、貧しい人たち、小さくされた人々です。そしてこの人たちこそ、神の救いのみ心の実現に重要な役割を果たす人々です。被らは生き延びるための富も力も持てない、ただひたすら苦しみに耐え忍びながら救いを待ち望み、祈ることしか出来なかった人々です。

 わたしたちは小さいものを助けるために近づくのではなく、わたしたち自身の救いのしるしをそこに見い出して、救いの望みに与るための礼拝・奉仕をするのです。礼拝と奉仕の間には何の分裂もありません。二〇〇〇年の教区新年礼拝にあたり、あらためて、私たちの宣教方針にある「小さな者」という言葉の信仰的な意味を黙想することをお勧めいたします。

( 教区新年礼拝=二〇〇〇年一月八日 聖アンデレ主教座聖堂)