主教からのメッセージ

主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋 宏幸

  子どもの頃も学生時代も、1分は60秒で1時間は60分、1日は24時間、1年は閏年でなければ365日、その長さは全く変わっていないにもかかわらず、時の流れの速さを痛感します。「世の中が目まぐるしくなったから」と言う人もいるでしょう。「スピーディーな時代になったから」という意見もありましょう。数多意見や考え方はありますが、一番は、やはり「自分が感じる」という点にあるようです。
 そのような中、十字架を目前にされたイエス様が、ベタニアに暮らすマルタに言われた言葉、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」を、時折思い浮かべます。イエス様は、マルタを非難してはいらっしゃいません。見下してもいらっしゃいません。そうでは無しに、マルタの選び違いを指摘していらっしゃいます。その背景には、次のことがありました。マルタには妹のマリアがいます。ところが、姉がイエス様への持てなしで忙しなく働き、動き回っている一方で、妹のマリアはイエス様の足もとに座って、その話に聞き入っていました。普通に見れば、姉が忙しく働き中、座って話に聞き入り、手伝おうともしない、気が利かない妹と非難することもできることでしょう。しかし、この期に及んではイエス様には時間がありません。十字架は、直ぐ目の前に迫っています。マルタは、心を込めてイエス様を持てなそうとはしていますが、ある種「マニュアル的」な彼女は、「今この場面では?」という判断、選択、応用が利きませんでした。
 一方、妹のマリアは、状況を敏感に感じ取る力に長けていたように見受けられます。状況を敏感に感じ取り、目の前にいらっしゃるイエス様と、その置かれた状況を感じ取り、心を向けることができたからこそ、この場でのより望ましい選択をすることができました。それを裏付ける、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」というイエス様の言葉が後に控えています。
 今の時代、選択肢が多すぎるがゆえに、選び取ることの難しさが増し加わっていることも感じます。けれども、選択肢がいくら増えようと、大事なことは自分の中に揺るぎない基準と軸の有無のはずです。また、余り意味の無い比較に一喜一憂したり、心を乱したりするのも、同じく自分の中の揺るがぬ基準と軸の有る無しに因るのでしょう。もちろん、いとも容易く基準や軸を作り上げられるのならありがたいことですが、中々上手い、手っ取り早い方法は見つかりません。けれども、手っ取り早さだけを求め、マニュアルやHow Toに走るのも、これまた危険でもありましょう。
 しかし、私たちの周りには数え切れない程の命の営みがあります。まさに「生きた教科書」「軸を創(造)る生きたヒントの宝庫」と言えます。「命ある人から学ぶ、人に学ぶ」ことを蔑ろにすることだけはしたくないものです。

2019年6月21日