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第93(定期)教区会開会演説

足らざる所を

 主教に就任致しましてから八ヵ月、皆様のお心遣いとお支えによりまして、不馴れな私を、この間励ましお助け下さいましたことを有難く存じます。教区会とは、もちろん初めてではございませんから、どういう性格と目的の会議であるか分っているつもりでございますが、議長の席には全く経験の無い者ですから、何とぞお手柔らかにお願い申し上げます。
 さて、東京教区とその諸教会の現状につきましては、毎主日の巡回や、教区の諸会合ならびに同僚諸聖職との会話をとおして、極力学びまた把握しようと努めて参りましたが、過去何年間か、実際教区の動きから離れていたせいもあり、その理解については未だ決して充分とは言えません。自信をもって、こういう状況であるから、こういう方向がこれから必要であろうと語れる状況ではないと思いますが、折角の大切な教区の意思決定機関の集りの機会ですから、誠に不充分ながら、私の現況理解とそれに基く、少なくとも向う何年かにかけて果たすことができれば、という期待を申し述べたいと思います。それが教区の真に進むべき道であるのかどうか、それが果たして実現可能であるのか、それが教会・教区とそこに連なる皆さんの成長に本当に資するものであるのかどうか―それは今後、あらゆる機会にご検討いただき、お知恵を拝借しつつご一緒に実効あるプランへと練り上げてゆければ、と希望しております。
教区・教会の現況理解に、いささか助けになるのではないかという観点から、特に前教区主教竹田主教とともに歩んだ教区の姿を振り返ってみたいと思います。お断り致しますが、この試みは、必ずしも統計や面接や調査に基く「科学的」な振り返りではなく、あくまでも私の主観に基く印象の域を出ないかも知れません。願っておりますことは、印象・感想であるから大して意味はないであろうということではなくて、そこには私の見方、私の価値観が否応なく表わされることになりますので、どうか、それを皆さんのこれからのご批判なりご提言の参照点としていただければ、ということです。

 竹田主教のリーダーシップのもとに成し遂げられた、教区・教会の生命と使命にとって、特筆すべき第一のことは、何と言っても、東京教区が日本聖公会における女性司祭の誕生の原動力となったことでしょう。それには、東京教区が姉妹関係を結んでいたメリーランド教区からの励ましが色々な形であったことを憶えます。姉妹関係が単なる友好・親善に止まらず、教会の生命と使命に関わる事柄で関心と経験を分ち合えることのできた素晴らしい一例だと思います。そしてそれは一朝一夕にして成し遂げられたことではなく、相互の訪問団の交換や、教会対教会のパートナーシップの提携などの積み重ねがあったからこそだと思われます。その後、教区には、さらに4名の女性聖職候補生が与えられることになりました。これもまた大きな喜びです。おひとりおひとりの召命を念じつつ、他の聖職候補生並びにその意志を表明しておられる方々とともに、いつか教区の聖職チームに加えられてゆく日を待ち望みたいと思います。
 同時に、司祭職に男女の区別を行なわないという教会全体の公式の在り方に、必ずしも同意されない聖職・信徒が居られることを知っております。その方々の心情と理論に理解を払いつつも、そのご見解の個人的表明が、教区・教会の信仰の一致を妨げることにならない広さを失わないものであることを求めたいと思います。
 第二に、過去十年ほどの教区の歩みの中で、教会の働きの前進の象徴的なステップは、教区に宣教主事が任命されたことでしょう。言うまでもなく、教区の宣教・牧会の最終的な責任は主教職にあるというのが聖公会の理解です。そして聖職は主教の代務者として各教会に派遣されてゆきます。けれども、宣教・牧会を教会単位で考えるのではなく、教区をひとつの単位として考えるとき、ただ教区内の聖職団に全てを託するのではなく、主事を任命して、教区が全体として果たさなければならない業を行ってゆく、というのは近代的な組織の在り方なのでしょう。それは、教区に財務主事が居り教務主事が居るということと同じ考え方で、宣教・牧会、ことに宣教の分野でそのような役割の人が必要であると教区が判断したことは、大きな前進だと言えるでしょう。しかも、竹田主教の英断で、その任に信徒が起用されたということも画期的であり、任用された方がその責任を充分果たしてきて下さったことも、将来にわたって信徒の賜物を重用することの大切さを教えてくれたと思われます。
第三に、一九九五年の阪神淡路大震災に際して、阪神地域の聖公会の諸教会の多大な被害の報に接して、ただちに救援・復興募金がスタートしました。その時の東京教区の反応は目ざましいものでした。手持ちの資金をすぐさま拠出して、悠然としがちな募金のプロセスを後回しにしました。当時私は教区に在住しておりませんでしたが、その行動の素早さに感心致しました。(しかも、各教会はその募金目標をほぼ達成しました。)復興・再建に着手しなければならない被災した教会にとっては、いつ与えられるか分らない助けを期待するのではなくて、すでにある程度の資金が届いているということは、極めて心強いことであったに違いありません。
以上の教区の決断は、多くの方々の心の関心ごとである事柄に、神の導きの徴を察知し、それに機を逃さず教区が応答できたという喜ばしい姿であったと思います。
過去一〇年余りの教区の姿を省みるとき、まだまだ多くの前進と成長の跡をたどることができるでしょう。たとえば、『教区時報』が多くの方々のご尽力で、週刊でキチンキチンと届けられていること、「教会グループ」が様々な形で教区の life(適当な訳語が思い当りません)を共有して下さっていること、「いと小さき者とともに歩む」という教区の姿勢のもとに、数多くのプロジェクトが生まれ、そしてそのプロジェクトがひとまず終了しても、その関心と活動が形を変えて持続されたこと、等々です。これらは、教会が現代の社会と世界の中で、神がお呼びになっている場に馳せ参じようという努力の表れだと思われます。

 これらの前進と成長を評価できることは、大きな恵みであり、私達にとっての励みでもあります。しかしながら、私たちは、教区・教会の数多くの「足らざる所」にも気付いています。新たな分野で新たな体験をし、新しい教会の姿を発見するのは喜ばしいことです。同時に、二〇〇〇年にわたる教会の歴史の中で蓄えてきた教会の体験の延長上にも―つまり、教会の姿の極めて伝統的な分野にも―本当は、新たな体験と新たな姿を見出すべきでしょう。私たちは、案外、そのような分野に「足らざる所」があることに気付いているようです。私たちの獲得した新しい分野での新しい体験をないがしろにせずに、なお「足らざる所」に、教区・教会の関心と活動を意図的に向けてゆくことが必要な時に来ていると思われてなりません。その「伝統的な分野」とは、たとえば礼拝音楽です。今、新しい聖歌集が出版されようとしていますし、そのための講習会なども各地で開催されています。これなど、「伝統的な分野」での新たな体験への取り組みの良い例です。
 同じように私たちが意を用いなければならないのは、信徒(そして聖職の)訓練の分野です。通常、教会では洗礼・堅信の準備を経てめでたくそのサクラメントにあずかることになった方々には、その後、信徒の訓練の場が(組織的・系統的には)備えられておりません。もちろん、教会の聖書研究会などに出席することが期待されているかも知れませんし、説教を良く聴いて自らの信仰の糧とすべきことが期待されているかも知れません。ただし、それはあくまで「期待」であって、今日の教会とキリスト者が世の中にあってあらゆる問題に日々直面してゆくときの、信仰の指針が系統的に与えられていないのは確かです。私自身、四〇年前の神学校時代の新約学の参考書が如何に今の時代と隔たってしまったことかと痛感するこの頃です。恐らく、信仰者には―時代や世界と隔絶して生きることを良しとするのでないなら―、常に自分を私たちの生きる時代と世界に対応させることが必要でしょうし、それが人々に私たちの行き方をとおして伝道する基本的在り方だと思われます。ちょうどクルマの車検制度が、常にメカニズムを整備しておくことを義務付けているように(ただし、信仰者というクルマは、新車より中古車ほど価値があるし、ポンコツはありません)、何年に一度かの信仰的リフレッシュは必要でしょう。そのリフレッシュは、○○研修会でも良いし、修道院の黙想会でも良いし、テゼの祈りの会でも良いし、けれども、なるべく多くの信徒を含めた組織的・系統的に行なわれることが必要なのではないでしょうか。この分野で、教区として考えられるプログラムは、教会委員である方々の研修、信徒奉事者の研修でしょうが、それが、その方々に、教区会に出席するのと同じくらい大切だと考えられることが必要でしょう。
もうひとつの教会の伝統的体験の分野は、聖職を先頭にしての宣教・伝道の分野でしょう。これについて論じ始めますと、キリがないと思われますので、ひとつだけ提案させていただきます。それは家庭集会の復興です。私たちは、伝道といっても、ある教派の人々が行なっているように(その熱意は買いますが)街頭で演説したり、戸別訪問をしたりすることが有効だとは考えておりません。私たちの信仰は、人づて、そして交わりをとおしてしか伝わらない性格のものだと理解しています。そして聖餐式によって送り出され、聖餐式に戻ってくる信仰の形態を伝えたいと思っています。それには、家庭集会の交わりを拡大することこそ最適だと思われてなりません。幸い、戦後の一時期より、私たちの住宅事情は格段に良くなりました。前述の教会委員さんや信徒奉事者の研修と連動して―その方々に限りませんが―、そういう方々の教会の業の分担として、聖職ともども家庭集会の復興に力を貸していただきたいと思います。
第三の教会の伝統的分野での新しい挑戦を行なわなければならない分野は、子供、そしてその延長上の青少年への働きかけです。恐らく、昔ながらの日曜学校、昔ながらの「青年会」「高校生会」を夢見ることは、まさに夢でしょう。年令の低い子供達にはまさに親ぐるみで巻き込む方法を考え出さなければならないでしょう。私自身も、この伝統的分野の方策を持ち合わせてはいません。けれども何もしないで良い、ということにはならないと考えています。

 以上自らに課した宿題とも言うべき分野ですが、私は、これらの分野こそ、宣教委員会で扱い、また知恵を集めていただかなければならない分野だと思います。ただし、伝統的な関心分野であっても、新しい発想と創造的な取り組みを試みなければならないでしょう。この伝統的な分野での新しい挑戦については、聖書の次のような物語を想い起こします。
 ガリラヤ湖の漁師たち(シモン・ペトロ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネ)と対面したイエスは、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と助言します。しかし、プロの漁師たちは、この素人のイエスの助言を初め聞こうとはしません。「私たちは、このあたりの湖は良く知っています。一晩中やったのですがダメだったんですから、まずダメでしょう」、よく知っている分野だから、今さらやってみてもダメでしょう、という気分は、私たちの気分と良く似ています。「伝統的関心分野は、もうダメでしょう」と。けれども、そこでイエスの指示に従ってもう一度チャレンジすることによって新しい次元が広がります。ひょっとしたら、彼らはどうせもう一度やるならと、ちょっとは前とは違ったやり方、ちょっと違った場所を試したかも知れません。いずれにしても、もう散々やった、という分野での新しい試みはしてみる価値があると思われてなりません。

 大分長くなりました。教区・教会の現況について、私の理解していることはまだまだ沢山あります。皆さんも、「足らざる所」は、こんなもんではない、まだまだ沢山ある、とお思いでしょう。
今回は、私にとって、それを発表する最初の機会となりますので、ひとまず、この辺で大風呂敷を拡げる前に、私の心にあります一端をご理解いただくことを第一にして、教区会における問題提起の第一幕とさせていただきます。次回はさらにこの問題提起の想を練って、皆さまのご批判に耐え、且つ、実際の企画が可能な素材としての用をなす形に整えたいと思います。

 なお教区の来年早々の運営の上で、考慮すべき大きな条件となる要素を付言して、皆様のご理解をあらかじめ得ておきたいと思います。
 第一は、東京教区は、日本聖公会全体の中核的役割を益々負ってゆかなければならない宿命を背負っています。現在でも四人の聖職を、神戸、大阪、名古屋に派遣しておりますし、日本聖公会の諸機関・諸学校でも、さらなる人材の派遣を要請してきております。そして、私は、これら諸機関・諸学校の働きは、聖公会全体の宣教の業として、決して「付け足し」として軽視されてはならないと信じています。「宿命」と申しますのは、東京・大阪などの大都市圏を抱える教区以外から、関連機関へ聖職を派遣することは、量的にも質的にも極めて困難であるからです。
 第二は、上記のことから、東京教区に備えられている当面の聖職数の中で、各教会への牧師派遣を融通しなければならない状況が、この一、二年でただちに好転するとは思えません。一教会一牧師(そして、本当は、大きな教会は一人以上の聖職が必要であるのに)という体制は崩れざるを得ないでしょう。今、与えられている聖職候補生が、聖職へと召されてゆくには、まだ三、四年必要でしょう。

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