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東京教区フェスティバル2001説教

−神の代理人−

主教 植田仁太郎

主教という恐れ多い職務を与えられて五ヶ月になろうとしています。前主教竹田主教の強いお勧めがありまして5月に東京教区の姉妹教区であるメリーランド教区を訪問し、教区の方々、また、教区主教のイーロフ主教と親しくお交わりする機会を与えられました。私たちの姉妹教区では、主教たる者はどういう役割をどのようにこなしていらっしゃるか、ちょっと勉強して来い、という竹田主教の私に対する親心だったと思います。それで、教区会で三〇〇人ぐらいの聖職や信徒の方々がお集まりの折りに、挨拶をさせられましたので、「イーロフ主教から色んなことを学ぶようにということで参りました。しかし皆さんからは、イーロフ主教のこういう所をマネしてはいけない、という所をぜひ教えていただきたい」と申しましたら、会場から大喝采を受けました。新米主教として、皆さんにも同じことをお願いしたいと思います。「竹田主教のこういう所はマネをしてはいけない」ということを教えていただきたいと思います。

いずれにしましても、誰も、他の主教方も、主教というものは、こうあるべきですということを教えてくれませんし、あるいは、あいつは、言ってもとても聞かないだろうとあきらめられているのかも知れません。それで、今のところせめて大変尊敬しておりました竹田主教にならおうと努めている次第です。竹田主教は一二年余にわたって教区と私共を指導してこられて数々の貢献をして下さいましたから、少なくとも、それを充分に引き継いでゆかなければならないと思っています。もっとも、この場は、教区会の演説の場ではありませんので、引き継ぐべきことのひとつひとつには立ち入りませんが、多分、竹田主教も就任早々の頃は教区全体をどういう姿勢にすることが、神の御心に叶うことになるのか、ずいぶん祈られ、そして考えられたのだろうと思います。最近教区の宣教委員会の方々から教えられたことですが、竹田主教が就任なさってすぐに出席されたランベス会議(一九八八年)から、いろいろなヒントや洞察を得られたようです。ランベス会議というのは、ご存知のように全世界の聖公会の主教が一同に会する一〇年に一度の会合です。竹田主教は就任間もなくこの会議に出席されています。
で、私もそれにあやかろうと、その一〇年後、つまり、一九九八年に開催されたランベス会議の報告書というのを読み始めました(つい最近、二年越しの翻訳作業が終わって日本語にもなっています)。全世界の主教さん―恐らく五、六百人という数になるのではないかと思いますが―が約三週間かけて討議したことの報告書なんですが、まア決して読み易いものでもないし、読んでいてワクワクするという読み物でもないので、あまりおススメできませんが、主教というのは、あるいは、教会というのは、こんなにも多方面に注意を向けなければならないのかと、呆然としてしまうほどいろんなことを討議しております。そして何と一〇七項目にわたる決議を採択しております。その決議は、聖公会の教義や礼拝についてばかりではなく、世界情勢のあれこれ、世界経済や社会問題、世界人権宣言や核問題、安楽死やホモセクシュアルの問題、他の教会や他の宗教との関係についてなど、あらゆる分野にわたっています。そのあらゆる問題に、神さまの導きを祈り、神さまの御心に叶う教会の働きができるように各教会に励ましを与えています。ランベス会議という聖公会の全主教が集まる会議は、まさに、できる限り、神さまの意志をこの世界で神さまに代わって実行しようとしているようです。私たちが、神さまの忠実な僕となろうという努力の中で、そうしているのだと思います。

ところで、今日福音書に選びましたルカ福音書の一節は、この神の忠実な僕とはどうあるべきかについてイエスが語られたたとえ話が伝えられています。
イエスのたとえはいつもそうですが、前後の関係なく、一種の永遠の真理を易しく解説したという形ではなく、必ずある人間関係や社会的関連の中で、その場にふさわしい教訓として語られます。いつ、どこにでも通用する格言としてではなく、ある特別な場面への特別な教訓という意味でたとえ話が語られています。ですから、それと似たような場面、似たような関係の中で、現代にも意味があるのです。永遠の真理であるから、現代にも通用するのではなくて、現代にも同じような場面があるので、イエスのたとえ話が現代にも通用する真理となってゆくのです。
先程読みましたたとえ話は、マルコによる福音書に記録されているものを読みましたが、同じたとえ話をルカは、もうちょっと想像力を働かして書き改めています。それによりますとこのぶどう園の農夫のたとえは、「民衆」に対して語られていますが、実際にこの話を聞かせたい相手は、民衆ではなくて、民衆の中にまじって聞いている律法学者や祭司長だったようです。この話の最後のところに、『そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので』(ルカ ・ )イエスに手を下そうとしたと書かれていますから、イエスは一般の民衆に話すような格好をしながら、律法学者や祭司長たちを批判した、ということになるでしょう。
その律法学者や祭司長たちを批判することになったたとえというのはこういうことでした。ぶどう園の主人が、収穫の時期になったのでぶどう園で働いている農夫たちの所へ次々と使者を送り込みます。ところが、その農夫たちはそんな使者のことなどまるで聞こうともしない、そして、ついに主人は息子を送り込みますが、農夫たちは、その息子に従うどころか殺してしまった、というストーリーです。そして、これは典型的なイエスの語り口ですが、「だから、こうしなさい」とみずから教訓を仰有るのではなくて、「さて、皆さんは、この物語をどう受け取るだろうか?」と聞いている人々に問いを投げ返します。『ぶどう園の主人は、このとんでもない農夫たちをどうするだろう』というのがイエスの問いです。つまり主人の代理人である使いの者や息子を無視したり、いじめたり、殺してしまった農夫たちを、主人はどう扱うだろうかというのが問いです。今、私は主人の使いや息子を「代理人」と呼びましたが、実は、農民自身も主人の代理人であるわけです。ぶどう園を主人になり代って面倒を見るように命じられ雇われているわけですから、ぶどう園の運営を任されているという点では、やはり、ぶどう園の主人、オーナーの代理人に違いありません。ですから、一群の代理人が、同じ主人から遣わされたもう一群の代理人を無視したり、いじめたり、殺してしまった場合、その主人はどういう手を打つだろうか、というのがこの物語をとおしてのイエスの問いです。
そして先程申したように、この物語を聞いていた「律法学者や祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけのたとえ話をされたと気付いたので」「イエスに手を下そうとした」と記されています。つまり傍若無人に振舞った一群の代理人というのは「お前達のことだぞ!」とイエスが指摘されたので、律法学者・祭司長たちはカーッときたわけです。何故カーッときたのでしょうか。何故「そういうこともあるワナ」と軽く聞き流せなかったのでしょうか。
第一に、律法学者・祭司長たちは、自他ともに認める「神の代理人」だという確信があったからです。律法をとおして与えられた神からの規範に、誰にも優って最も忠実に、そして厳密に従っている自分たちこそ、神の代理人であると確信を持っていたからでした。
第二に、だからこそそういう自分達に神がもう一群の他の代理人を差し向けて、とやかく言ってくるなどということはあり得ないと、これまた確信していたからでした。自分たちこそ、神からぶどう園の運営の一切を任されている代理人だから、他の代理人と称する者たちにとやかく言われる筋合いではないと、自信を持っていたからでしょう。彼らが怒った決定的な第三の理由は、イエスがみずから投げかけた問いに、あるヒントを与えたからでした。そのヒントというのは「主人はこの農夫たちを殺し、ぶどう園を、ほかの人たちに与えるにちがいない。」というのがそれです。「殺す」というのは穏やかではありませんが、要するに、ぶどう園管理の代理人の総入替えという手を打ってくるのが普通じゃないかな、というのが、イエスの与えたヒントです。
ある一群の代理人が主人の言うことを聞かず、反抗してくるなら、その代理人たちをクビにして、総入替をするというのが普通じゃないかナと仰有います。つまり律法学者・祭司長たちは、神の代理人であるという特権を剥奪されることになるのが普通じゃないかナと仰有ったからカーッときたわけです。

教会の伝統的な、このたとえ話の解説は、ここで終わってしまいます。そうだそうだ、イエス様の言うとおりだ、律法学者・祭司長たちは、イエス・キリストの福音を理解しようとせず、ついには神の御子であるイエス・キリストを十字架に付けて殺してしまったんだから、もう神の代理人ではなくなるのは当然だ、イエス様はそれに代って――ユダヤ教指導者たちを総入替して―イエス様に従う教会をその代理人にして下さったんだ――と、こう解釈しました。この解釈は本当にそれでいいのでしょうか。
「神の代理人」―これは、ローマ法王に対して、世俗の世界がやや皮肉を込めてつけた称号です。ローマに在住して、ローマ史やイタリア史に題材をとった沢山のノン・フィクションを書いている女性の作家で、塩野七生という方がおり――私は大好きですが――その方が歴代のローマ法王の物語を書いた本の名前も「神の代理人」というタイトルです。自他共に「神の代理人」としての役をこの世界で演じているのがローマ法王だというわけで、ローマカトリック世界とその影響のもとにある人々にとってはまさにそのとおりでしょう。それは、イエスがペトロに対して「あなたはペトロ、わたしはこの岩の上に教会を建てる・・・わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタイ ・ 〜 )と仰有ったという故事に、その起源があるのですが、本当にイエスがそう仰有ったのかどうか、現代の新約学者は、かなり疑わしいとにらんでいます。
いずれにしても、見事、教会は、律法学者・祭司長になり代って、「神の代理人」の座に着くことになりました。ローマカトリック教会だけが法王を中心に神の代理人になり代ったというわけではありません。プロテスタント教会も、ただ法王だけが「代理人」だというのはおかしい、怪しからん、と言っているだけで、自分たちも牧師や長老を中心に、いわば神に代って神のみことばを発する神の代理人だと主張しています。
わが聖公会は、主教たちこそ、イエスの使徒の継承者で、神と信仰にかかわることを一切代行している、つまり神の代理人であると暗に主張しています。先の全聖公会の主教たちの会議であるランベス会議は、そうあろうとする姿勢がありありと見えます。

しかし果たしてそうでしょうか。先程、イエスのたとえ話の真実は、今日も同じような状況があるから、今日にも、あるメッセージを伝えているものだと申しました。そういう意味で、このたとえ話を謙虚に読めば、神は一旦定めた神の代理人たちの他に、他の代理人を次々と任命して神の命令と意志とを伝えるものだ、ということを教えています。仮に、教会が神の代理人という役割を与えられているとしても、神はいつでも、その他の代理人をいくらでも派遣なさる方だヨ、ということをまず言っていると思います。そして、もともとの代理人が、新たに派遣された代理人を無視したり、いじめたり、追い返したりした場合には、神は平気でもとの代理人をクビにして、総入替してしまうような方だヨということも言っていると思います。
今日、私たちは、教会に連なりつつ、さらに社会との関わりの中で、様々な奉仕をされている方々やグループを憶えようとしています。その方々は、その活動の中で、教会では聞くことのできない声や叫びや訴えを聞かれることもあるでしょう。教会の方々とは全く異質な環境で生きていらっしゃる方々と接することもあるでしょう。今までの自分の生活の中で感じたことのない悩みや喜びを持っていらっしゃる方と出会うこともあるでしょう。
神は、いつでも、いろんな代理人を私達のところに寄こします。その代理人は、他の宗教の衣を着けているかも知れません。他に頼るところの無い怪し気な外国人の装いをしているかも知れません。どこにでもいらっしゃる子育てに悩んでいる母親の姿をしているかも知れません。そして、私たちか、私たちがそうであると確信している代理人、あるいは僕の努めを果たしているかどうかを問い質します。
今日のイエスのたとえ話は、教会の在り様を正当化するための話ではなくて、私たちに反省を迫る話だと思います。私たちが神の代理人の役を果たせない時には、神さまはいくらでも他のグループ、他の宗教、他の人々を神の代理人としてお立てになるということを示しております。
ランベス会議に集まった主教たちが、凡そこの世界のあらゆる問題について発言し、また祈り求めざるを得なかったということは、そういう神さまへのひとつの応答をしようという努力だと信じております。東京教区につらなる各教会が神さまから託された努めを果たしつつ、なお、次々と送られてくる神の代理人の声を良く聞く、そういう教会になってゆきたいと思います。