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第97(定期)教区会開会演説      

 教区会にご参集下さいましてありがとう存じます。

 春・秋と召集されます教区会は、春は主として前年の教区の働きの報告、そして秋は、主として次の年の教区の活動計画を議する機会となっています。そして、教区の活動の中で明らかになった、機構や制度の修正が必要となった場合には、その都度教区会に諮って検討することとなっております。前年の評価と反省に立って次年度の歩みを決定するという意味では、春の教区会と秋の教区会は、八ヶ月隔たっているとはいえ、検討する事柄の精神はおのずからつながっているということでもあります。

 昨年11月の教区会で採択されました、「信徒代議員に女性が一層選出されるための方策を実施する件」という決議を各教会の皆様が真剣に受け止めて下さった結果、一年後の今日の教区会にご出席の女性の信徒代議員の方々は、信徒代議員総数の35%を越えることになりました。「…未だし」という感想をお持ちの方もおられるでしょうが、少くとも、教区で協議し、教区で合意したことに沿ってそれぞれの教会がご努力下さったことに、敬意を表したいと存じます。

 春と秋の教区会は精神においてつながっているという意味で、この春にはやや準備不足の感が否めなかった・そして、結果として撤回された・、「教区常置委員選出方法指針」の改定を、もう一度今回改めて皆さんに検討していただくことになっております。いずれにしても、これらの一連の施策は、教区会と教区常置委員会という教区の意思決定機関に、教区の皆さまの思いと声を、できるだけ適切に反映させたい、という願いからであると信じております。そういう流れのひとつの表れとして、この教区会にも、教役者議員はともかく、この二、三年のうちに、新らたに信徒代議員に選任されて出席して下さっている方が多くなったと思います。その方々を歓迎申し上げる気持ちとともに、教区会というものの位置づけについて、ひとこと申し上げたいと存じます。

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 ちょうど二週間前に、毎年行っております、聖職養成委員会主催の教役者研修会が二泊三日で行われ、今回は、「教会法」を学ぶことが、そのテーマでした。半分はそこで学びましたことの請け売りですが、「教会法」といった場合、それは、教会のどこかに「六法全書」のような法律集があって、それが教会の運営の全ての法律となっている、という意味ではありません。(ローマ・カトリック教会では、それに似た包括的な法律集がありますが)聖公会の場合、それらしいのは「法憲法規」だけです。しかし、教会法というのは、そのような法律集に限られるものではありません。むしろ、聖書・祈祷書・教会会議の決議である信経、すべてが広義の教会法にあたります。それに加えて重要なのは、現にいのちを持って存在し、働いている教会・教区・管区のそれぞれのレベルで協議され、合意される事柄が、いわば教会法の延長とみなされます。その意味で、(各個教会ではなく、the Churchという意味での)教会は、特に聖公会は、いわゆる議会制民主々義という政治形態が生まれる以前から、合議制によってものごとを決定してゆくことを大切にしてきました。そして主教は、その合議制に基く合意を保証してゆく、教会の意志を代表する者として見なされることとなりました。

 従って歴史的な主教制度を引き継いだ教会は、ことに主教のこの責任を重視し、主教のもとにある(各個教会ではなく)ひとつの教区を、全体的教会の地域的単位と考えてきました。もちろん、宗教改革以降、このような制度に異を唱えて、ひとつの会衆(各個教会)こそ、全体的教会の唯一の表明であると主張する会衆派や、バプテスト教会も存在することとなりました。しかし私たちは、教区こそ、全体的教会の最少単位であるという伝統に立ってきております。(だから「オレの言うことを聞け!」と申しているのではなく)教区会というものは、単なる東京教区という教会連合体の運営について意見を交わす場であり機関である以上に、全体的な教会のいのちに関わる事柄を考えるひとつの重要な機会であることを憶えたいと思います。

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 そして、その教会のいのちの働きを実際に担って下さっているのは、各教会の牧師とともに信徒の皆さんです(もちろん主教の責任も重いことも確かです)。いのちを持って生きている教会ですから、時代とともに盛衰があり、強大になったり、弱体化したりすることがあるでしょう。いのちを保ちつつ、耐え忍ぶ時があり、闘う時があり、生き延びる努力をする時があり、大いに成長する時があり、また将来を望み見て備える時があるでしょう。そのいのちが生きるよう命じられた時代がどのような時代であれ、その中で、世の中の苦しみと痛みと重荷をともに担うことの中に、そのいのちは喜びと希望を見出します。イエス・キリストの身体といわれる教会は、別の言葉で申せば、神を指し示しつつ、実際に神の国の片鱗を実現するいのちある共同体です。

 その共同体に洗礼・堅信をとおして加わって下さる方が与えられるというのは、いのちある共同体の生きている確かな証拠であるように私は思います。それぞれの教会で洗礼・堅信を受ける方が絶えず与えられ、教会で洗礼式・堅信式のサクラメントが行われるというのは、いのちの心臓の鼓動のように思います。洗礼・堅信が久しく行われない教会があるとすると、その教会のいのちがやや弱っていると言わざるを得ないでしょう。ひとが、教会の共同体に導かれその共同体の一員として生きることを決断することになるには、実に様々な要因と力と祈りが働く結果なのであって、まさに「神さまの導きによって」としか言い様がありません。

 また東京教区の多くの教会では、専任・定住牧師が与えられず大きなハンディを抱えています。ですから、時には、いのちがやや弱ってしまうという徴候が表れるのも避けられないことかもしれません。にもかかわらず、二〇〇三年は今日までに一三四人の堅信受領者が与えられました(二〇〇一年度は五八人、二〇〇二年度は一一六人)。私はこれらの数字を挙げるとき、それを何か私たちの意図した業の達成を表わすものとは考えません。むしろ、教会いのちに触れて下さった方がこれだけいらっしゃったという望外の喜びの数として受けとっています。教会のいのち、神の国の片鱗を分ち合って下さる方が与えられるというのは、そのいのちの営みに教区の聖職・信徒の皆さまがそれだけ真剣に参与して下さっていることを示しているものとして、喜びを共にしたいと思っております。

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 各教会に託された日常の宣教・奉仕・交わりの業をとおしてその喜びを常に持ち続ける教区・教会として二〇〇四年度もご一緒に励みたいと思いますが、同時に、教区としてのそのいのちに連なる業を続けたいと思います。

 一年前に宣教委員会を改組して、「信仰と生活委員会」と「正義と平和協議会」を発足させ、宣教委員会の持っていた広範な活動分野を二つの焦点に絞るという方向に歩み出しました。信仰と生活委員会が打ち出しました信徒の研修と子供へのミニストリーを自覚的に進めるという重点方針を引き続き喜んで支えたいと思いますし、それとともに本教区会で正義と平和協議会がお諮りすることになる「エルサレム・中東聖公会との交流」という新しい歩みにも意を注ぎたいと考えております。

 世界の聖公会との連帯と交わりは、常に東京教区の働きに新たな認識と友情と刺激と挑戦を与え続けてきました。歴史的には、大韓聖公会、フィリピン聖公会、アメリカ聖公会メリーランド教区との交わりは、私たちに神さまの呼びかけに応じる多くの機会を与えてくれました。今、私達の心を痛めている世界の戦争と紛争そしていわゆるテロの脅威の根幹にあると思われるのは、五〇年間満足な合意を得られないまま苦しみと犠牲だけを生み出してきたイスラエルとパレスチナの問題です。

 そのパレスチナの地で、私たちと信仰を共にする聖公会の人々が苦闘している体験から、私たちが学ぶべきことは実に多いと思われます。かつて東京教区をエルサレム教区主教、ナザレの教会の司祭(現主教)が訪問されましたが、当時は残念ながら両教区の交わりにまで発展することはありませんでした。小さな教会の交わりが、ただちに平和をもたらすことはできないでしょうけれども、その交わりの種が将来どんなに大きく育つものか私たちは、大韓聖公会、フィリピン聖公会、メリーランド教区との交わりの中で実際に体験してきました。

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 私たちの各教会での礼拝と交わりと奉仕が営々と続けられる中に、教会のいのちがあり、そのいのちを分ち合ってくれる方々が次々と与えられる喜びがあります。また教区全体として、お互いの教会を支え合う働きと、世界の聖公会との交わりを継続することになります。

 終りに過去二年間にわたって私が教区会の席上で所信表明致しましたことは、依然として私の宿題として残っていることは言うまでもないことを申し上げ、それに加えて本教区会と、来年に向けての私の期待するところを述べさせていただきました。

(了)

[2003年11月24日]

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