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〈東京教区新年礼拝説教〉

第二イザヤが私たちに呼びかけていること

主教 植田仁太郎

 今日は二〇〇四年度にあらためて、教区の諸委員会の委員をお引き受けくださった方々にお呼びかけして、ご一緒に私たちに与えられた責任を自覚し、神さまの前に、神さまの道具となって、謙虚にその務めを果たすことを誓いましょう…そういう機会を持ちたいと思いまして設けました礼拝です。昨年は、各教会の教会委員に選任された方々に呼びかけました。各教会委員さんであれ、教区の諸委員としてご奉仕くださる方であれ、その務めの本質は同じだと思います。事実上、両方の務めを重なって担ってくださっている方も沢山おられるでしょう。いわば教区というひとつの楕円形の二つの中心のように一つはそれぞれの教会という視点から、もう一つは教区全体という視点から大きな意味での教会の成長を目指す上での無くてはならない二つの視点に立っていただこうということです。

 昔、算数を勉強したときに、楕円形を描くには二つの点の間に紐を弛むように留め、その紐をピンと張るような形で二つの点のまわりに鉛筆を動かせば楕円形が描けると教わりました。教区というのは、主教を中心とした同心円ではなくて、各教会という一つの点と、教区全体というもう一つの点の周りに描かれる楕円であると私は思っています。主教はいわばそのふたつの点の間に渡された紐みたいなもので、それを用いて教区の皆さんが楕円形を描いてくださればいいと思っております。そういうわけで、教区の各教会の視点を持っていただく教会委員と教区全体という視点を持っていただく教区の諸委員と、一年ごとに集まって礼拝をすることにしたいと思っております。しかし今も申しましたようにその果たす役割は本質的には同じことです。二つの視点をしっかりさせた上でいつもはデレッとしている紐である主教をピンとさせて楕円形を描くということです。

 さてこの頃、毎日テレビ、新聞のニュースでは何やらキナ臭い自衛隊の駐屯地だとか装備だとか攻撃だとか正当防衛だとか、そういう戦争、軍隊用語が飛び交っています。それが通常の世界、日常の世界となってしまって良いのかどうか、大いに疑問です。そういうことが当たり前になって良いのかどうか私たちは注意しなければならないでしょう。そのニュースの焦点となっているイラクの地は、実は先ほど読んでいただいた旧約聖書が問題としている地と、たまたま全く同じ地域です。おおよそ二五〇〇年前も旧約聖書の主人公であるイスラエルの民がイラクという土地に注目しておりました。勿論、イラクという地名ではなくバビロンという地名で呼ばれている地域です。先ほど読んでいただいたイザヤ書51章にはこういう背景があります。

 イザヤ書は一つの書物ですが、学者によれば三つの本の合本だそうです。そして、学者たちはそれを第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと呼んでおりまして、これは真ん中の部分、第二イザヤと呼ばれる書物です。イスラエルの民が何万人という単位でバビロニアに捕虜になりました。その捕虜になった人々が、バビロニアの支配者が代わったお陰で何年か後にいよいよ帰還してよいということになりました。それは強制連行で日本に連れて来られた韓国・朝鮮人の人々が、日本が戦争に負けて日本の支配体制が代わった機会に帰ってもいいよといわれたのと良く似ています。帰ってもいいよと言われても帰りたいのは山々だけれど、連れて来られて何十年も経ってしまえば、はいそうですかとすぐ帰る決心がつくというわけでもない、帰る道筋だってちゃんと送り届けてくれるわけではないし、色々苦難が予想される。で、そこで二五〇〇年前のバビロンでも、せっかく故国に帰る可能性は開けたけれども、みんな帰ろうじゃないかというリーダーの呼びかけに従ったのは結構少数だったということです。

 終戦後の日本でも、日本に謂わば拉致された何万人という韓国・朝鮮人の人々の中でも日本に残った人と帰った人と居りました。それと同じような状況でした。そのバビロンから故国エルサレムに帰ろうと呼びかけたリーダーが第二イザヤという名で呼ばれる預言者です。その預言者が、神さまが昔から約束された土地に帰って、神さまとの正しい関係をもう一度築き直そうよ、と呼びかけたのですが、折角与えられたチャンスを前にして、ほんの少数の人しか一緒に来ないという現状を見て、歌ったのがこの箇所です。このように歴史的、社会的背景は中々複雑です。

 第二イザヤが立っている場所は現代のイラクですが、その語ってる背景は違います。それなのに何故、私たちはこの二五〇〇年前の第二イザヤの呼びかけを未だに大切にしているのでしょうか。旧約聖書は膨大な書物ですから現代に意味があることをそこから見出すのは中々大変です。明らかに現代ではどうでも良いことも沢山書かれています。歴史の古文書としての価値はあるでしょうが、現代の私たちの信仰にとってどうでも良いこと、必要ないことも沢山含まれています。そうであってもイザヤ書、特に第二イザヤは現代の私たちにも極めて大切な信仰の書とされています。バビロニアがどうのこうの、エルサレムに帰るの帰らないの、というのは現代の私たちにはどうでも良い歴史の一頁に思えます。二五〇〇年も前の一つの国際的な事件を背景にして記された文書から私たちが現代学ぶことは、その事件を背景にして語る預言者の観察と呼びかけです。多くの人々が帰国を前にして躊躇しているのを見てがっかりしながら、預言者はそれを神が与えてくださった一つのチャンスと見て取ります。何を躊躇しているんだ、私たちの神さまはアブラハムの妻に素晴らしいことをしてくれたのではないか、エジプトの奴隷状態から助けてくれたではないか、それを忘れたのか…「奮い立て奮い立て遠い昔の日のように」。つまりその神に依り頼めば不安材料は小さなものだ、これは大きなチャンスだと預言者は呼びかけます。

 第二イザヤと呼ばれる預言者ばかりではなく、旧約聖書に登場する全ての預言者は皆同じです。どんなひどい苦しみの中にあっても、どんな神の審きと思われる状況の中でも、これはチャンスだと呼びかけます。悔い改めのチャンスだし、新しい出発のチャンスだし、与えられたものを生かすチャンスだし、神をもう一度見上げるチャンスだし、新たな喜びと恵みを感じることの出来るチャンスだ、と呼びかけます。現代的に言えば、預言者は人生はいつも神様の与えてくださるチャンスに満ち満ちている、今現に与えられているものから出発しよう、という人生に前向きの人々です。

 さて教区の委員として推薦されたり、選ばれたりした皆さんは、どうして推薦されたり、選ばれたりしたのでしょうか。何か特別な能力が認められたからでしょうか。何か教区に対して功績があったからでしょうか。何か学歴がモノを言ったのでしょうか。そうではないことは皆さんご自身が良くご存知です。常置委員会が各委員長さんを選び、また委員長さんに推薦された方々を選ぶのに別に履歴書を見ているわけではない、勿論テストをするのでもない…。

 教区が皆さんにある役割を担っていただくようにお願いするのは、何よりも皆さんがあのいにしえの預言者のように人生に向かって前向きである人だと確信出来る方ですし、またブツブツと無いものネダリをするばかりの人間ではなくて、今与えられてるものから出発しよう、今は一つの神さまが与えてくださるチャンスだと考えらえる方々だからです。それは第二イザヤの表現を借りれば「正しさを求める人、主をたずね求める人」ということです。イザヤの呼びかけに多くの人は躊躇しましたから全部が全部イザヤが言うように、今は神の与えられたチャンスだとは考えられなかった。東京教区の方々全部がやはりそうではないかも知れませんが、皆さんは「正しさを求める人、主をたずね求める人」だと私は信頼申し上げております。

 その人たちに向かって、リーダーである第二イザヤは何と言っているでしょうか。この長い51章の文書の中から「○○せよ」という命令形の呼びかけの部分だけを拾い出して見ると、今が神さまの与えてくださったチャンスだ、現に与えらえた状況から出発しようと考えられる人はこうしなさい、ということがはっきりしています。 まず「私に聞け」とある。これは預言者が神さまになり代わって言っていることです。「私に聞け」は何度も出て来ます。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ(1節)」。これは自分が自分自身一つの孤立した存在になるのではなくて全体の一部だ、いわば「教会の、教区の一部だ」ということを忘れるなということでしょう。

 そして「あなたたちを産んだ母サラに目を注げ(2節)」と命じます。人類はみなアブラハムとサラから生まれたという神話に基づいた呼びかけですが自分が勝手に生きていると思ってはいけない、私たちはみな人類の営みの一部として生まれてきているのだということを憶えて欲しい、ということでしょう。そしてまた「心してわたしに聞け。…わたしに耳を向けよ(4節)」、そして「天に向かって目を上げ下に広がる地を見渡せ(6節)」と命じます。つまり文字通り、宇宙全体を見渡すつもりで広い視野でものを考えろということでしょう。そして三たび「私に聞け」です。そして「奮い立て奮い立て(9節)」と続きます。

 つまり、今が神さまの与えられているチャンスだと考えられる人は何をしなければならないか、というと、「神さまに耳を傾けよ」ということが最も大切なこと、そして私たちは全体の一部に過ぎない、人類の営みの一部だ、それを忘れるな、ということ、そして広い広い視野を持てということでしょう。

 私たち、聖職も信徒も教会の人間として何事かを託される人は、世間とは全く違った基準で選任され、またそうやって選任された私たちは、まず神さまに耳を傾けるところから始めなさい、と預言者は言います。

 教会はこの世の組織としてまた人間の共同体として、企業的側面も学校の側面もまた趣味のサークルのような面も、NGOのようなある目的のためのグループのような側面も持っておりますが、それを支える私たちに求められるのは、能力や学識や技術をはるかに超えて「正しさを求め、主をたずね求める人」であること、そして神に耳を傾けること、いつも全体の一部であることを忘れるなということ、宇宙的視野でものごとを見、また考えられる人となってゆくことだと教えられています。この意味で二五〇〇年前にイザヤが呼びかけたことは、未だに教会に連なる私たちに力強く語りかけるものを持っています。

 ここにいくつか挙げた資質を一言で言ってしまえば、信仰によって生きている人ということです。神さまに耳を傾ける、つまり神さまの前にいつも謙虚になる、という意味でご一緒に嘆願をいたします。ご一緒に祈りのうちに、教区と教会の成長に私たちが私たちの力を出し合うことが出来るようにお祈りしたいと思います。

〈2004年1月24日〉

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