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「裁く」 と 「赦す」 −その2−

主教 植田仁太郎

 朝日新聞7月8日号に、オピニオンとして一面全部を使って「犯罪とゆるし」という対談が掲載されていた。

 その対談の中心になったのは、アメリカで独特のキリスト教共同体生活をしている人々の「ゆるし」の実際である。06年10月に、アーミッシュ学校銃撃事件というのが起ったそうだ。そこでアーミッシュの子ども5人が殺され、さらに5人が重傷を負ったという。犯人はその場で自殺してしまった。アーミッシュの人々は、近代以前の生活形態をかたくなに保ち、電気や自動車などを全く使わず、自給自足の共同体をアメリカ各地で守り続けている。

 その子どもたちが多数犠牲になるという悲惨な事件であった。それに対するアーミッシュの人々の対応が注目されることになった。事件当日のその晩から、何人ものアーミッシュの人々が、自殺してしまった犯人の家を訪ね、自分たちはその殺人者を「赦す」と告げていったそうだ。そして、その死んでしまった殺人犯の葬儀にも、何人ものアーミッシュの人々が参列したという。けれども、彼らは、もし犯人が生きていたら、もちろん赦すけれどもちゃんと刑務所にはゆくべきだと語ったそうである。

 つまり、被害者が加害者を赦すという気持ちと行為は、司法制度の下で加害の責任を取ることとは全く別のことだと考えられている。信仰者、キリスト者は、このアーミッシュの人々のような「赦す」勇気と恵みを与えられていると思う。

 しかし、それと司法制度は別のものであって、制度の良し悪しは絶えず問われなければならないが、それは、「赦し」の心と相反するものではない。