NSKK 日本聖公会 東京教区
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歴史の重み

主教 植田仁太郎

先月、この欄で、私たちの日本聖公会という教会は、宣教開始から150周年を迎えた、と書いた。
 教会が与えられている使命を果たすために、また教会という信仰者の共同体がこの世の中で存続してゆくために、150年間、多くの苦労と犠牲が捧げられてきたであろうことは間違いない。教会のために、いのちをかけた人々も数多く居た。それはそれで実に尊い。しかし、それは、その人々の決意と決断が、苦労と犠牲を敢えていとわなかった、その行為の歴史である。
 このような歴史を語ろうと思って、多磨全生園(たまぜんしょうえん)(元ハンセン病患者さんの療養施設)内の礼拝堂での礼拝に臨んだ。その数日前、この年が、全生園という施設が作られてちょうど100年目だということを知った。さらにその数日前頃、100周年の記念式典が行われ、厚生労働大臣の謝罪文が読み上げられたという、小さな新聞記事があった。
 それを知った時、自分たちの教会の歴史を、強制と差別と偏見の中で、みずからの人生を奪われてきた、(私たちもそのことに加担したのだが)――そういう人々に語って何になろうと、痛感した。その人々の歴史は、いわばみずからの決断と選択の結果の歴史ではなくて、たまたま当時不治の病いとされた病いに冒されたというだけで、強制的に(国家権力と社会の世論の力で)みずからの人生を放棄させられた歴史である。
 様々な歴史の憶え方があろう。しかし、ただ何周年というその重みには、大きな違いがあるように思えてならない。
 今年は、安重根(あんじゅんぐん)の、伊藤博文の暗殺から100年目だそうだ。韓国独立運動の英雄として憶えられている。ところで韓国では、暗殺ではなく「銃殺」した人物とされている。この歴史の重さを、多くの日本人は知らない。