2013年降誕日(降誕日第三聖餐式)

                                司祭バルナバ菅原裕治
 クリスマスおめでとうございます。教会にとって大切なこの日に、礼拝でご一緒できないことが大変に残念ですが、今、場所は異なっても、同じ時間に私も礼拝を捧げています。場所と時間を超えて、共にクリスマスの喜びに与かりたいと思います。
 さて、降誕日の福音書は、ヨハネ福音書1章1節以下と、ルカ福音書2章1節以下が選択となっています。今朝は、ヨハネ福音書からご一緒に学んでいきたいと思います。
 イエス様の誕生物語は、皆さんよくご存じの通り、マタイ福音書とルカ福音書にしか書かれていません。四つの福音書の中で、最初に書かれたと考えられるマルコ福音書には、イエス様の誕生に関する物語はありません。また復活や主の晩餐に関して、新約聖書の中で一番に古い伝承を残している、と考えられるパウロの手紙にも、イエス様の誕生は、全く触れられていません。
 マルコ福音書の著者やパウロが、イエス様の誕生について、どれぐらい知っていたのか、あるいは知らなかったのかということはわかりませんが、全く何も触れていないということは、両者ともイエス様の誕生の物語を、それほど重要だとは思っていなかったのだと考えられます。確かに福音ということから考えますと、パウロにとってもっとも重要な福音は、イエス様の十字架の死と復活でした。またマルコ福音書の著者は、その福音の内容を、十字架と復活だけではなく、イエス様の宣教活動にまで広げて考え、福音書という文書を書き記したのでした。そしてマタイ福音書とルカ福音書になって初めて、福音がイエス様の誕生そのものまで拡大されて考えるようになったのです。
 さて、それでは、今日の聖書の日課である、四つの福音書の中で最後に書かれたヨハネ福音書はどうでしょうか。この福音書にもイエス様の誕生物語はありません。しかし、ヨハネ福音書の著者が、マタイやルカにあるイエス様の誕生物語を全く知らなかったということはありえないと思います。それでは、ヨハネ福音書の著者は、イエス様の誕生物語、クリスマスの物語に関心がなかったというと、そうではなかったと思います。ヨハネ福音書の著者は、イエス様の十字架と復活によってよって明らかになった福音を、イエス様の宣教活動も、イエス様が誕生した物語も超えて、もっと大きな視点でとらえたのです。
 ヨハネ福音書の始まりは、とても不思議な書き出しで始まります。「初めに言があった」。この部分を読むと、ほとんどの人が、「初めに、神は天地を創造された」で始まり、言葉で天地を創造される創世記1章の物語を、思い起こすと思います。事実、著者はそのことを前提に書いていると思います。ここにある「言」とは、神様の言葉や知恵を意味していると考えることができますが、ヨハネ福音書の著者は、「言」とはイエス様に他ならないと考えています。
ヨハネ福音書の著者にとってイエス様とは、この世界の最初から存在していた方なのです。ただし、そのことがそのことが明らかになったのは今であると告げています。つまり、ヨハネ福音書の著者にとって、イエス様の誕生物語とは、この世界、この歴史の中にイエス様が誕生したことを告げると同時に、イエス様がこの世界の最初から、時間を超えて存在していることを告げる物語に他ならないのです。
 それ故に、ヨハネ福音書の著者は、自分の福音書を読む人が、パウロやマルコ福音書や、マタイやルカにあるクリスマスの物語を知っているという前提で、あえて従来ある誕生物語を書き記すことをしないで、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と物語を始めるのです。そして最初から言としてのイエス様は存在したことを告げるのです。その意味で、ヨハネ福音書は、歴史も時間も超えて、クリスマスの物語を語っているのです。
 イエス様が時間を超えて最初から存在していることを知ると、世界に対する見方が変わります。そのことをヨハネ福音書は様々に表現します。その一つが、「言の内に命があった」という表現です。「言の内に命があった」とはどういう意味でしょうか。
 命はイエス様が誕生する以前から大切なものです。そしてそれぞれの生き物の中に命があります。そして特に人間はその自分の命を守り、あるいは豊かにしようと努めます。しかし、本当の命とは、人間が追い求め、守ろうとする何かにあるのではなく、言であるイエス様の中にあるのだとヨハネ福音書は語ります。だからこそ、自分の命を追い求める必要はない。そのために争いあうことも、悩むことも、悲しむこともない、そのように「言」の中に、「イエス様」の中に本当の命があるからです。
 次は、「命は人間を照らす光であった」という表現です。それは、イエス様の中にある命は、人間の目標や願望ではなく、私たち人間を照らす光であるということです。天地創造が光の創造から始まるように、人間は、物理的にも精神的にも暗闇を恐れ、光を求めます。そして自ら光を生み出し、いつわりの何かを光と錯覚する場合もあります。しかし、イエス様こそが光である。神はそのように最初から天地を創造されていた。そのことを知った時、私たちはどんなことがあって暗闇にはいないのです。光の中にいて、何も恐れる必要はないです。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」からです。
 そして次に、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」という事実が、私たち人間に臨みます。その言葉であり命であり光であるイエス様を受けいれた人々に、神の子としての資格が与えられるのです。それは神が選ばれた民というユダヤ人であるかどうか、というような枠を超えただけではありません。様々な時代の様々な文化によって作り上げられた、人間的つながりという意味での「絆」、人間の様々な主張・考えという意味での「欲」、社会の常識や考え、あるいは学問という意味での「知」それらを超えて、イエス様を知った人は、神によって新しく生まれたものとなると断言しているのです。文字通り、イエス様の誕生によりすべてが今新しくなった。それゆえ、今、イエス様を信じた人は、その瞬間、すでに新しい世界に生きている存在となる、ヨハネ福音書は、最初からそのように断言しているのです。言葉を変えれば、ヨハネ福音書にとってのクリスマスの意味とは、イエス様の誕生を救い主の誕生であると知った人は、瞬時に新しい世界に入ったことを意味しているのです。
 さて、このようにイエス様の誕生をとらえるヨハネ福音書の信仰は、非常に排他的な信仰に捉えられるかもしれません。あるいは、一種の思考停止のような信仰と受け止められてしまうかもしれません。あるいは、歴史を無視した信仰のようにも思えます。特に、礼拝の後のアピールタイムで、様々な社会のことに関心を持とうとする私たちの教会にとって、あるいは私たちの国の状態に、歴史を振り返ってみるからこそ、危険を感じる現在の私たちにとって、何とも言えない、無関心や現実無視の世界に引き込む誘惑のようにも思えます。しかし、それらは、ヨハネ福音書の示す信仰の本質ではありません。
 今日と同様に、イエス様の時代も、そしてヨハネ福音書が書かれた時代も、今、何が正義であるか、悪であるか、あるいは今なにが社会で問題であるか、どのようにそれを解決するか、そして自分たちはどのような歴史を歩んできたかを知ることは大切なこと事柄でした。しかし、それらの善悪の判断も、社会の仕組みも、歴史を書き記すことも、そもそも人間が作り上げたものであり、それらは時代や文化によって異なります。そしてそうであるがゆえに、そこに人間の進歩があるとも言えるのですが、争いが絶えないのです。憎しみ合うこと、奪い合うことが絶えないのです。
 ヨハネ福音書は、最初からイエス様が言として存在したことを告げます。そして救い主としてのイエス様の誕生を知った瞬間、その人は、そのイエス様によって神の子として資格を受けた、救いに入ったと告げます。どこのだれで、どういう人で、何をしてきたか、何を考えているか、それらをすべて超越して、神の子としての資格を受けるのです。それは、時間と空間を超越しているからこそ真理なのです。そしてだからこそ、その信仰に入った人は、何があっても安心なのです。そしてその信仰から、その安心から、神に守られた存在として、神の子とされた存在として、今ある与えられた命を生きることができるのです。現実の世界に関わることができるのです。
 私たちは、このいつもの礼拝堂で降誕日の礼拝を捧げています。今年も牧師が不在であり、いつもとは違う、み言葉の礼拝であり、聖餐式ではありません。しかし、大切なことは、私たちが、すでに信仰の世界を生きるものとして、神の子として神様に受け入れられているということです。そのことを今日は特に、ヨハネ福音書を通じて確認したいと思います。そしてこれからもこの教会で、イエス様の光の下で守られながら、何が本当の命で光であるかを示していきたいと思います。