チャプレン ヨナ 成成鍾司祭
「 信念と信仰 」
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命を与えるのは“霊”である。
肉は何の役にも立たない。
わたしがあなたがたに話した言葉は
霊であり、命である。
(ヨハネ6:63)
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<福音書> ヨハネによる福音書 6章60~69節
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。
「実にひどい話だ。
だれが、こんな話を聞いていられようか。」
イエスは、弟子たちがこのことについて
つぶやいているのに気づいて言われた。
「あなたがたはこのことにつまずくのか。
それでは、人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
命を与えるのは“霊”である。
肉は何の役にも立たない。
わたしがあなたがたに話した言葉は
霊であり、命である。
しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」
イエスは最初から、
信じない者たちがだれであるか、また、
御自分を裏切る者がだれであるかを
知っておられたのである。
そして、言われた。
「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、
だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、
もはやイエスと共に歩まなくなった。
そこで、イエスは十二人に、
「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
シモン・ペトロが答えた。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
あなたこそ神の聖者であると、
わたしたちは信じ、また知っています。」
<メッセージ>
「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか。」(60節) 信じ難いことですが、これはキリストが弟子たちから言われた言葉です。しかも「弟子たちの多くはキリストから離れ去りました。」(66節) キリストにさえそういうことがあったとすれば、私たちが他者から100%信頼されることは不可能に近いことかもしれません。それではなぜ弟子たちはキリストに「つまずいた」(61節)のでしょうか。そして離れ去った弟子たちと残った弟子たちの間にはどのような違いがあったでしょうか。ヴィクトル・ユーゴー(Victor-Marie Hugo、1802-1885)の小説『レ・ミゼラブル(Les Misérables)』に登場する二人の人物を比較することで、それについて一つの理解を得ることができます。
登場人物の一人は、主人公のジャン・バルジャンが銀の食器を盗み警察官に捉えられた時、“それは私がこの人にあげたものです。”と言って彼のことをかばってくれた主教ミリエルです。主教が見せた愛と赦しの心は小説の全体を貫いていますが、ジャン・バルジャンは自分が赦されたことを心に留め続け、生涯生まれ変わった人生を送ります。そしてもう一人は警察官ジャベールです。彼は社会秩序を絶対的に信奉する者として、一回罪を犯した者は決して変わらないという信念を以って徹底的にジャン・バルジャンの後を追っていきます。ところが、革命を夢見る若者たちに殺されそうになった時にジャン・バルジャンによって助けられ、大きな衝撃を受けます。ジャン・バルジャンが自分のことを赦したこと、さらに自分自身も罪人であるジャン・バルジャンを赦したことに気づき、茫然自失の状態へと陥ってしまった挙句、セーヌ河に身を投げて自ら死んでいきます。
主教ミリエルと警察官ジャベールは相反する二つの原理を象徴すると考えられます。それは「神の原理」と「世の原理」です。信念に基づいている世の原理は、社会秩序を保つための勧善懲悪を信奉するジャベールによって象徴されます。規律や規則を重んじることによって、変化の可能性や弱者への配慮などを否定し、数字や効率性を優先する経済の論理、また多数決の論理が支配するのが世の原理なのです。一方で信仰に基づいている神の原理は、愛と赦しこそが神様の心であり、あらゆる価値の基準だと信じてそれを実践した主教ミリエルに象徴されます。人間であるがゆえに罪を犯してしまいますが、そうであるにも拘らず赦し、その恵みによって正しい生き方へ導きます。限りない憐れみによって救いがもたらされるのが神の原理なのです。
警察官ジャベールは、世の原理である「信念」に従った生き方を象
徴し、主教ミリエルは、神の原理である「信仰」に従った生き方を象徴すると言えます。ところが、信念と信仰は、まるでギリシャ・ローマ神話に出てくる顔を二つ持っているヤヌス(Janus)のようなものだと言えます。意識的に注意を払わないといつの間にか顔が変わってしまい、それに気づかないことも多々あります。ことに気を付けなくてはならないことは、本人も知らないうちに信仰は信念に代わり、自分が大事にしている信念が信仰だと勘違いしてしまうということです。キリストを離れ去った弟子たちのこともそういう観点から読むことができます。孔子の『大学』に「心不在焉(心ここにあらず)」という言葉があるように、いつの間にか彼らの心はキリストの信仰から自分の信念へと移ってしまったわけです。