2006/12/25

聖ヨハネ福音書第1章1節〜14節


 

降誕日礼拝説教
 

聖マーガレット教会 牧師 司祭 山口千寿


 
 皆さん、クリスマスおめでとうございます。
 今年のクリスマスは、わたしたちの教会、日本聖公会が新しい聖歌集を作成してお捧げしてから、初めて迎えるクリスマスです。その聖歌集を用いて、新しい歌を歌ってみ子のご降誕を祝おうとしています。
 勿論、わたしたちが永年、歌い続けてきた聖歌も全く同じ歌詞のままで、今年も歌うことができる喜びもあると思います。また、わずかに、或いは大幅に歌詞が変えられていて、新鮮な印象でもって歌ったり、逆に戸惑いを感じながら歌うものもあるでしょう。
 従来の古今聖歌集では、「降誕節」という項目のもとに収められていた聖歌は10曲でした。それが、今度の新しい聖歌集では38曲にも増えていますから、クリスマスに行われる何度かの礼拝の中でも、全部の聖歌を歌うことはできません。その中で新しい聖歌も少しずつ用いながら、また、歌詞が改められた聖歌を歌うことを通してクリスマスを祝うことの喜びを、改めて思いめぐらしたいと思います。
 新しい聖歌と申しましたが、実は昔からある聖歌で、今までは聖歌集の中に入っていなかったけれども、今回、新たに採録されたものもあります。そのような聖歌の一つで、わたしにとっては大変懐かしい曲を歌うことができるようになったことは、嬉しいことの一つです。昔の『幼児さんびか』にあった「神の御子のイェスさまは」という歌が、新しい聖歌集の77番に入りました。昨晩の、ご降誕日の最初の聖餐式で歌いました。
 わたしが保育園や日曜学校に通っていた頃、この子ども賛美歌をクリスマスには必ず歌いました。どのような場面で歌ったかというと、ページェントの一番最後、馬小屋の場面です。小屋の中にヨセフ、マリア、そしてお人形のイエスさまが飼い葉桶に寝かせてあって、その背後には天使たちがずらっと立っています。そこに羊飼いたちが羊をつれて現れてイエスさまを礼拝します。続いて星に導かれて3人の博士たちが登場し、それぞれ贈り物を捧げてイエスさまを拝みます。 
 登場人物が全員そろったところで、この賛美歌をみんなで歌うのです。
 「神の御子のイェスさまは 眠りたもうおとなしく
  飼い葉桶のなかにても 打たぬ藁の上にても」
  この詩の終わりのところの、「打たぬ藁の上にても」という言葉が何を歌っているのか、子どもの頃は全く理解をしていなかったと思います。ただ、そのように歌うように教えられたから、教わった通りに歌って、毎年、クリスマスを祝ってきたのでした。
 わたしがやっと物心のついた頃の、葛飾の家の周りは、田んぼや畑ばかりでしたから、きっと農家では藁打ちということが行われていたのでしょう。しかし残念ながら、わたしには藁打ちを見た記憶がありません。
 藁は打つことによって柔らかくなって細工がし易くなるといいます。同時に強靱にもなるそうです。また、叩くことによって藁の表面に細かな穴が沢山開くので、温度を温かく保ったり、湿気を吸い込んでくれるようになるそうです。藁という素材の持っている特質が向上するのだそうです。
 今は藁打ちの機械があるようですが、昔は、それを木槌を使って行ったわけですから、大変な作業であったと思います。しかし、その作業を経ないと藁が使い物にならないのです。
 お米を脱穀した後の、藁を高く積んで作った藁塚というのを田んぼの中に見かけることがあります。子どもの頃、お百姓さんの目を盗んで、その藁塚の中に潜り込んで遊んだことがありました。藁の良い匂いと暖かさがあって、晩秋の夕方に遊んでいるときなどは、とても気持ちがよいのです。ところが、後で藁の細かな屑が体中をちくちく刺して、じっとしていられなくなるのです。どんな悪戯をしたか、大人にすぐに見破られてしまうことになってしまいます。
 生まれたばかりのイエスさまが寝かされた「打たぬ藁の上」というのは、そのような藁なのです。赤ちゃんの柔らかな肌を刺してすやすやと眠ることを赦さないで、むずかることを強いるような、そんな寝床の中にイエスさまは寝かされたのです。それしかヨセフもマリアも用意できなかったのです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」(ルカ2:7)です。
 イエスさまのこのような誕生の物語は、イエスさまのご生涯が、どのようなものであるか、そして、どのような苦しみを受けなければならないかを暗示しているのではないでしょうか。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)と言って、この地上には故郷を持たず、町から村へ、村から村へと宣教の旅を続け、世の中から見捨てられた人びとの仲間となって、その苦しみをはらわたが痛むまでにご自分の苦しみとして受け止めた生涯です。
 弟子たちと寝食を共にしながら、親しく教えを説き、神の国の到来を力ある業でもってお示しになったにも関わらず、弟子たちに理解されることなく、裏切りを受けるのです。ペトロは「そんな人は知らない」(マルコ14:71)と裁判の庭で呪いの言葉さえ口にするのです。その呪いをイエスさまは自ら担って十字架へと進んで行かれたのです。
 そして、十字架の上では茨の冠をかぶせられ手足を釘で打たれ、脇腹を槍で刺され、血を流す苦しみの中で無惨な死を遂げるのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と人間からの裏切りだけでは、まだ足りないかのごとくに、父なる神さまに向かって絶望の叫びを上げながら息を引き取るのです。
 そのようなイエスさまのご生涯を、「打たぬ藁」は徴として指し示しているのではないでしょうか。
 新しい聖歌集では、この詩の作者の名前は上げられていません。しかし、かつての『幼児さんびか』では、作者は、マルチン・ルターとされていました。元々の詩がどのようなものであったか分かりませんが、この詩は、イエスさまの十字架の贖いを信じる信仰のみが、神さまの前に義と認められるという、ルターの信仰の理解に沿ったもであると考えられたのでしょう。
 苦難をご自身の身に背負うためにお生まれになったイエスさまは、しかし、この聖歌では、「眠りたもうおとなしく」と歌います。この先、どんな生涯が待ち受けていようとも、それを暗示するものが既に体中をちくちくと刺し始めていようとも、父なる神さまのみ心に全てを委ねきって安心して安らかに眠ることができる。その幼子イエスさまの全き信頼が、安らかな眠りを可能としていいるのです。
 イエスさまだけではありません。わたしたち誰もが生まれてきたときには全てを両親や家族、またほかの人びとに委ねることしか知らなかったのです。全てを自分以外の人たちに依存して、頼り切って命を保ってきたのです。依存しなければ命を保つことが出来ないのです。自分一人では成り立って行かないのです。他の人に頼り切らなければならないのです。ところが、大人になって幼子らしさを捨てました。同時に自分以外のほかの人を信頼する心も失ってしまったのではないかと恐れます。
 人は一人では生きていけない、そのような弱さの中に神さまが来て下さった。その弱さを背負った人間となって、苦しみや悲しみを神さまがわたしたちと同じように、いや、わたしたちよりずーっと深くに味わい、担うために嬰児となってお生まれになった。それがクリスマスのメッセージです。
 「馬がないて目が覚めて 笑いたもうイェスさまよ
  明日の朝起きるまで 床のそばに居りたまえ」
 2節の詩です。幼子イェスさまの笑みを歌っています。ニコニコと笑う赤ちゃんの笑顔。そこには何の心配も不安もありません。ただただ平和が支配しています。闇の恐れも消え失せます。
 そんなイエスさまに、「明日の朝起きるまで、床のそばに居りたまえ」と祈ります。インマヌエル、神われらと共にいます、と呼ばれた方が、曙の光が射し込むときまで一緒にいて下されば、否、一緒にいて下さるのだから、夜の暗闇も、また人生の途上で深い闇が覆ってきたとしても、恐れに押し潰されることなく勇気をもって歩むことができると、今度はわたしたちの信頼を歌うのです。
 クリスマス、それは信頼を回復するときです。そしてイエスさまがわたしたちと一緒にいてくださる喜びを発見するときです。幼子イエスさまが放つ光を求めて、わたしたちもベツレヘムの馬小屋に詣でたいと思います。