2008年聖霊降臨節

主はわたしたちに祈る心を与えてくださいました


 
 

聖マーガレット教会 牧師 司祭 パウロ 田光 信幸


 
もうすぐ主のご降誕を祝う準備の季節である降臨節を迎えます。
 と同時に、聖霊降臨後の期節の終わりが来ます。
 この期間、一人一人が「キリストの心」である聖霊をいただいて、何を思い、何を祈り、何を行うかを考えてきました。
 「わたしたちは神様の憐れみに信頼するとき、わたしたちの願いに神様は必ず耳を傾け、何ものにも変えることのできない全能のみ力をもって、危難の中で守り、悩むときに強めてくださることを、イエスさまのご生涯のみ姿の中に示してくださったことに信頼します。」
(聖霊降臨後第2主日の特祷)
 祈る心とは、神様の愛とイエスさまのみ姿に信頼すること
 神様が私たちを愛してくださっているということの徹底した信頼を検証すること
 イエスさまのご生涯のみ姿の中に、わたしたちが危難と悩みを乗り越える知恵が何一つ欠けることなく示されていることを信じることです。
 旧約聖書のイザヤ書には、その神様の私たちに対する憐れみの心を教えて、(神は、)「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻む」と教えます。
 三人称複数ではなく、二人称単数で、私とあなたという関係の中で、神様はわたしをいつでも忘れることのない存在として、手のひらに刻んでいつでも思い起こしてくださる方としてわたしの前に存在してくださっている方だと示しています。
 神様は、私と向き合ってくださる。
 一対一で、さぁ話してみなさい。
 あなたの思いを聞きましょう。
 そういう存在感です。
 それが神様ご自身がなによりもわたしたちに示す愛と平和の姿勢であり、イエスさまの私たちを救いと解放に導く姿であり、だからこそ、わたしを含めて神様とイエスさまに信頼を寄せてすべてを委ねて命の道を歩むわたしたちが立つべき基本の姿だということでもあるように思います。
 神様と一対一に向き合う思いが、祈る心を支えるのです。
 そのことを知り、感じ、伝えていく、それが人と人とが信頼に結ばれて、他のために生きる力に強められていくのです。
 パウロは、党派争いや不品行・訴訟・貧富の対立・無秩序な教会の状態に混乱するコリントの教会の人々に、「十字架のキリスト」にすべてを委ねて信仰と愛と希望に生きるべきことを訴えて、「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっている。」と一人一人の信仰の自覚に訴えて、神とイエスさまに信頼して生きる本来の信仰生活への回帰を強く語ります。
 また、イエスさまは、「天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えられて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と語られます。
 わたしが、あなたを知って、受け止め・受け入れ、支え・強め・導く、それが祈りへの信頼だということを語っておられるのですね。
 祈りの心とは、「あたなたのことは、わたしの手のひらに刻んでいる」という神様の思いへの信仰をもって、神さまに信頼と誠実を尽くして、すべてを委ねて生きる心と言うことです。
 「信仰の薄い者たちよ」という主の厳しいみ言葉があります。
 「薄い」(オリゴ)とは「ほんの少し」「ほんのわずか」(例。オリゴ糖)
 「信仰」は「信頼」とも同じ言葉です。
 薄い・厚い、弱い・強いというよりも元の言葉の意味は、自分の都合の良いことだけを選んで、ほんのわずか、少しだけ信じる、信頼するという意味になります。
 ご利益信心と同じです。
 これは、イエスさまの言われる「祈り」でも「信仰」でもありません。
 祈りの心は教会の心です。
 この祈りの心を持つ信仰の在りようが、いつの時代にも問われるということを忘れてはならないと思います。
 科学が進歩し、知識が増し、情報が溢れるほどに行き交う時代に、神への信頼と誠実がどこまで人間の在りようを支えるものとして気づかれているのか、そのことが揺らぐことのないように問われているのですね。
 私たちが生きる現代という時代は、多種多様な情報に囲まれ、千差万別の価値観の選択が可能であり、さらには人間が真に希望する自由と正義と解放の社会、理想社会としての約束の地がどこにあるのか不確実になっているという時代でもあります。
 最近の世相を見れば、金融不安、大企業の倒産、果てしない戦争の脅威、倫理観を喪失した無差別殺傷事件、幼子から高齢者まで安全が保たれていない社会構造等々、それらのことを感じれば感じるほど、現代において、神の約束を思う神の国と神の義の現れはどこにあるのかと戸惑いを覚えます。
 その解決を求めることの難しい時代でもあります。
 それは言葉を換えれば、神への信頼と誠実を尽くす信仰が困難な時代でもあるというしるしでもあるわけです。
 そのような時代の状況のなかで、わたしたちはどこに神の国と神の義の現れに気づき、どのように信仰の誠実を尽くすのか、つまりは「祈りの心」を見失わないという答を持っていなければなりません。
 私たちが、信仰によって示される人間の真の自由と正義と解放の、希望の社会像を見失えば、現代の社会の希望なき闇は果てしなくわたしたちの愛と希望の将来を閉ざす結果となります。
 祈りは、常に、主イエスさまのみ姿を想い起こし、主と一つとされて生きる姿勢を確認する行為です。
 愛とは、神と人とに「ひとつに結び合わされる」ために、赦しと和解と受容を内容とする心の形成です。
 信仰とは、主のみ姿と自分自身を一つにする祈りと、神と人とに「ひとつに結び合わされる」ために、赦しと和解と受容を内容とする心の形成を行う愛とが伴います。
 主が私たち共におられ、私たちを神の平和の道具として用い、天の国(神の支配される状態)の希望を確かなものとして与えられることを、ご一緒にお祈りしていきましょう。


(牧師近影)