大斎節第4主日 日曜学校教話 2008.3.2

ヨハネによる福音書 9:1 〜 13、28 〜 38

 さて、イエスはとおりすがりに、うまれつきめのみえないひとをみかけられた。でしたちがイエスにたずねた。「ラビ、このひとがうまれつきめがみえないのは、だれがつみをおかしたからですか。ほんにんですか。それとも、りょうしんですか。」イエスはおこたえになった。「ほんにんがつみをおかしたからでも、りょうしんがつみをおかしたからでもない。かみのわざがこのひとにあらわれるためである。わたしたちは、わたしをおつかわしになったかたのわざを、まだひのあるうちにおこなわねばならない。だれもはたらくことのできないよるがくる。わたしは、よにいるあいだ、よのひかりである。」こういってから、イエスはじめんにつばをし、つばでつちをこねてそのひとのめにおぬりになった。そして、「シロアム──『つかわされたもの』といういみ──のいけにいってあらいなさい」といわれた。そこで、かれはいってあらい、めがみえるようになって、かえってきた。きんじょのひとびとや、かれがものごいであったのをまえにみていたひとびとが、「これは、すわってものごいをしていたひとではないか」といった。「そのひとだ」というものもいれば、「いやちがう。にているだけだ」というものもいた。ほんにんは、「わたしがそうなのです」といった。そこでひとびとが、「では、おまえのめはどのようにしてひらいたのか」というと、かれはこたえた。「イエスというかたが、つちをこねてわたしのめにぬり、『シロアムにいってあらいなさい』といわれました。そこで、いってあらったら、みえるようになったのです。」ひとびとが「そのひとはどこにいるのか」というと、かれは「しりません」といった。
 ひとびとは、まえに盲人(もうじん)であったひとをファリサイはのひとびとのところへつれていった。そこで、かれらはののしっていった。「おまえはあのもののでしだが、われわれはモーセのでしだ。われわれは、かみがモーセにかたられたことはしっているが、あのものがどこからきたのかはしらない。」かれはこたえていった。「あのかたがどこからこられたか、あなたがたがごぞんじないとは、じつにふしぎです。あのかたは、わたしのめをあけてくださったのに。かみはつみびとのいうことはおききにならないと、わたしたちはしょうちしています。しかし、かみをあがめ、その みこころをおこなうひとのいうことは、おききになります。うまれつきめがみえなかったもののめをあけたひとがいるということなど、これまでいちどもきいたことがありません。あのかたがかみのもとからこられたのでなければ、なにもおできにならなかったはずです。」かれらは、「おまえはまったくつみのなかにうまれたのに、われわれにおしえようというのか」といいかえし、かれをそとにおいだした。
 イエスはかれがそとにおいだされたことをおききになった。そしてかれにであうと、「あなたはひとのこをしんじるか」といわれた。かれはこたえていった。「しゅよ、そのかたはどんなひとですか。そのかたをしんじたいのですが。」イエスはいわれた。「あなたは、もうそのひとをみている。あなたとはなしているのが、そのひとだ。」かれが、「しゅよ、しんじます」といって、ひざまずいた。

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