今週のメッセージ――主日の説教から


2005年5月29日(日)(聖霊降臨第2主日 A年) 晴れ
「 御心を生きる 」

――今日の聖句――
<「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡を行なったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない、不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」>[マタイによる福音書7:21―23]

 今日の聖句は、有名な「山上の説教」の結論に当たる部分です。そこで、主イエスは、これまで聞いてきたこと、つまり「御心」を行いなさい、と教えられます。ただ、ここで注意しなければならないのは、信仰が大事か、行動が大事かといった議論に陥らないことです。主イエスは、当時のユダヤ教が陥っていた、律法至上主義、つまり律法さえ守っていれば救われるという考え方に鋭い批判を浴びせかけられましたが、信仰さえあれば行動はどうでもよいとか、それとは反対に、行動の伴わない信仰は無意味であるとかいうことは、一言も言ってはおられません。

 本来、信仰と行動とは一体のものであります。表と裏の関係と言ってもよいかもしれません。信仰があれば、必ずそれは行動に現れますし、また、行動のうちには信仰があるものです。この場合の行動は、いわゆる『よい行ない』や『善行』を指すのではありません。例えば、病気や体の不自由な方、そのような方々にとっては、病気と戦うこと自体が、立派な行動です。どのような姿勢で病気に立ち向かうか、そこに信仰が現れます。

 また、年を重ねることにおいてもそうであります。体の動きや記憶が鈍ってくることは仕方がないことであります。しかし、その中で、どのように生きるかと言うことが大切です。大切なことは、信仰や行動の中味です。それを、主イエスは、『御心を行なうこと』と言われました。『御心を生きる』と言い換えてもいいかもしれません。

 このとき、一つの疑問が湧き上がって来るかもしれません。どうして「自分にとって御心は何か」という疑問です。確かに、わたしたちは、人生において、幾度か、岐路に立たされることがあります。そして、一つの道を選択します。その道が御心であり、悪魔の道でないことをどうして確信することができるか、という疑問です。

 二つのことを考えたいと思います。一つは、わたしたちは、本当は御心が分かっているのではないか、ということです。しかし、それが分からないというのは、実際は、それを自分はやりたくない、選びたくない、その理由として、御心が分からないと思おうとしているのではないか、ということです。

 もう一つは、その答えは自分で探し出さなければならないということです。「御心」は、神さまから既に示されていますが、それを見つけるのは自分です。第2次世界大戦中、アウシュビッツ収容所から生還した心理学者、ビクトル・フランクルはこのような意味のことを言っています。

 「わたしたちは、人生の意味は何かと問う存在ではなく、人生が出す問いに答えを出す存在である。」と。

 「人生の意味」を「御心」と置き換えてみてください。つまり、わたしが、誰かに御心を尋ねるのではなく、わたしが、御心が何であるかを尋ねられており、その答えを求められているということです。

(牧師 広沢敏明)


2005年5月22日(日)(三位一体主日 A年) 晴れ
「 豊かで多様な神との出会い 」

――今日の聖句――
<終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神が、あなたがたと共にいてくださいます。聖なる口つけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者が、あなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。>[コリントの信徒への手紙U 13:11―13]

 今日は、三位一体主日です。教会の暦の中で、この三位一体主日だけが、純粋に神学的というか、教義による名称で、あとはすべて、主イエスの誕生とか、受難とか、復活とか、「神の人類救済の歴史(出来事)」という枠組みに基づいて組み立てられています。

 わたしたちは、「三位一体の神」という言葉を聞くとき、どのような神を思い浮かべるでしょうか。聖公会の祈祷書にある「教会問答」には、このように記されています。
『(1)万物を造られた父なる神、(2)万民を贖われた子なる神、(3)命の与え主、世に働き神の民を清められる聖霊なる神、この父と子と聖霊の聖なる三位一体を信じることです』(問い4.)

 この三位一体の教理は、一つの重要なメッセージをわたしたちに与えてくれます。それは、わたしたち一人ひとりが、豊かで多様な形で神と出会うことが許されている、ということです。 三位一体の教理は、初代教会時代に次第に精緻になっていきましたが、その根底にあるのは、旧約から新約聖書の時代にかけて、千年以上にわたる、イスラエルの人々の神との多様な出会いの経験です

 アブラハムは、ハランの地で平穏な生活をしていたとき、カナンに向かって旅に出よとの、声を聞き、それに従いました。アブラハムにとって、神は、「いつも自分と共にいて」、支えてくださる存在でした。 モーセは、エジプトで奴隷の状態にあるイスラエルの民を解放せよとの声を聞き、イスラエルの民をエジプトから解放しました。モーセにとって、神は、自分たちの苦難を、共に苦しみ、そこから解放してくださる存在でした。預言者エゼキエルは、死んだ者の骨が、聖霊の息吹によって復活する幻を見ました。エゼキエルにとって、神は、死んだ者を甦らせる命の息吹でした。そして、神経験の究極のものは、イエスとの出会いでした。イエスの弟子たちは、現実にこの世に生きた人間イエスを、遂には、神と認識するに至ったのです。

 ですから、わたしたちも、辛いときは辛いと、悲しいときは悲しいと、苦しいときは苦しいと、神さまに率直に告白してよいのです。わたしたちは、もっと神さまを身近に感じることが許されているのです。

(牧師 広沢敏明)


2005年5月15日(日)(聖霊降臨日 A年) 晴れ
「 神の息吹 」

――今日の聖句――
<五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分れに現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。・・・だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話しているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話しをしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか、どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろう。」>[使徒言行録2:1−8]

 今日は、聖霊降臨日、ペンテコステです。ペンテコステとは、復活日から50日目を意味しています。毎年、この日には、使徒言行録の2章が読まれ、古くから「教会の誕生の日」として祝われてきました。今日の聖句は、その冒頭の部分です。

 主イエスが十字架の上で殺された後、逃げ惑っていた弟子たちも、再びエルサレムの隠れ家に集まり始めました。その時、彼らは、どのような状態だったのでしょうか。聖書によれば、既に復活のイエスに会い、昇天をも目撃したことになりますが、私は、それらの出来事、つまり、復活、昇天、聖霊降臨の出来事は、一つの出来事、いわば「イエスの出来事」というものの、幾つかの側面を表しているものではないかと考えています。その核となるものは、それまで恐怖におびえ、すべての力を失った弟子たちが、再び力を得て立ち上がっていくことにあります。

 主の十字架から50日目、弟子たちは、まだまだ弱弱しい集団でした。隠れ家に、息を潜めて、肩を寄せ合って生活をしていました。何時、ユダヤ教やローマ軍の手が自分たちに伸びるかもしれないという恐れもありました。そのような現実に対して、なすべき手段も力も彼らは何一つ持っていませんでした。また、彼らは、自分たちの師であるイエスを裏切ったという思いにさいなまれている人々でした。「イエスと一緒に死にます」、とまで言いながら、いざとなったら散り散りに逃げまどい、イエスを拒み、捨て去りました。そういう人間に宿る深い闇を見てしまった人々でもありました。彼らには、もはや、自力ではそのような闇を負い、現実に向かって働きかけていく力は残されていませんでした。その時に「神の霊」が働き始める。それが聖霊降臨の出来事です。

 霊のことを、ギリシャ語ではプネウマと言います。これは、息や風も表す言葉です。聖霊は、「神の息」とも「神の息吹」とも、或いは「神風」とも訳すことができます。

 聖霊降臨は、正に「神の息吹」が吹き渡る出来事です。「神風」です。「神の息吹」は、人の心を変える力を持っています。「神の息吹」は、弟子たちを変えていきます。それまで、現実への恐怖と人間の闇の前に、隠れ家の中にうずくまっていた弟子たちは、神の息吹を浴びて、立ち上がり始めます。人間の闇をしっかりと担い、現実に立ち向かう力を持ち始めます。こうして、弱い弟子たちの集団は、強い集団に変えられていきました。

(牧師 広沢敏明)


2005年5月8日(日)(復活節第7主日 A年) 晴れ
「 昇天の出来事 」

――今日の聖句――
(1)<こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。>[使徒言行録1:9]
(2)<わたしは、もはや世にいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。>[ヨハネによる福音書17:11]

 教会のカレンダーでは、5月5日(木)は、「昇天日」でした。今日の聖句(1)は、主イエスの昇天の様子を描いています。聖書の中には、現代の人々にとって、すんなりと理解できない出来事があります。この昇天の出来事もそうです。これらをどのように理解すればよいのでしょうか。現代のわたしたちは、自分自身が、飛行機に乗って、天に昇るような経験をすることもできますし、また、日本の種子島やアメリカのケープカナベラルでのロケット打ち上げの様子をテレビで見ることもできます。聖句(1)は、まるでロケットのように、雲を裂いて主イエスが天に昇られる様子を描いていますが、現代のわたしたちには、そのまま信じることはなかなか難しいように思います。

 この叙述は、神の住まいは天高くにあり、死者が行く陰府は地下深くにあるという当時の宇宙観に基づいて、ある思想を表現したと考えられます。しかし、現代のわたしたちたちは、2000年前とは、宇宙やこの世界について、当時の人々とは比べものにならない知識をもっております。

 それでは、主イエスの昇天は無意味なことでしょうか。そうではありません。そこには、主イエスとの深い交わりを経験した弟子たちが、そういう表現でしか表すことのできなかった「真実」が隠されているからです。ですから、わたしたちは、主イエスの昇天の出来事は、あくまで「信仰の問題」として理解しなければならないように思います。それは、「主イエスは確かに、立ち去られ、天に昇られた。だが、しかし、今、ここにいてくださる。わたしたちと共にいてくださる。」という確信ではないでしょうか。

 今日の聖句(2)は、主イエスが十字架につけられる前夜、この世に残される愛する弟子たちのために祈られた祈りです。「大祭司の祈り」とも言われます。主イエスが弟子たちのために、必死で父である神に向かってとりなしをされる祈りです。この祈りは、ヨハネによる福音書の精髄ともいわれます。ある人は、「この世が、いかに苦労と悲しみに満ちていても、わたしたちが、なお希望を持って生きられるのは、この祈りがあるからだ」、と言いました。

 弟子たちは、主イエスの十字架の死の後、恐れと、悲しみの中で、繰りかえし、繰りかえし、この主イエスの祈りを思い出したのではなかったでしょうか。そうして、主イエスは、立ち去ってしまわれたが、それによって、天と地がつながれ、今、我々と共におられるという実感が、次第に確信となっていったのではなかったでしょうか。この世には、依然、苦労があり、悲しみが満ちています。また、人間は、この2000年、愚かなことを繰り返してきました。戦争や争いは止まず、貧困もなくなりません。しかし、今、ここに教会があり、わたしたちがここに生きています。それは、主イエスが必死で祈ってくださり、父なる神が、一生懸命に守っていてくださっているからです。

(牧師 広沢敏明)


2005年5月1日(日)(復活節第6主日 A年) 晴れ
「 主イエスにつながる 」

――今日の聖句――
(1)<「実際、神はわたしたち一人ひとりから遠く離れておられません、皆さんのうち のある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と言っているとおりです。」>[使徒言行録17:45―46]
(2)<わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。>[ヨハネによる福音書15:5]

 今日聖句(1)は、有名な「パウロのアレオパゴスの説教」の一節です。今から約2000年前の世界において、ギリシャのアテネは、世界文明の正に中心でした。政治の中心はローマに移っていましたが、文化の中心は依然ギリシャにありました。

 昨年、このアテネでオリンピックが行われましたので、街の中心にそそり立つパルテノン神殿は、皆さまの記憶に新しいことと思います。アレオパゴスは、このパルテノン神殿のある岩山、アクロポリスの北西にあり、裁判や会議が行われたところです。パウロは、この世界の都の晴れ舞台、アレオパゴスで、世界最高水準の知識人を相手に、説教をしました。しかし、パウロは、アテネの人々にとって、神は学問や討論の対象であっても、信仰の対象ではなかったことに大きな失望を感じたようであります。

 パウロは言います。「神は、わたしたち一人ひとりから遠く離れておられません。わたしたちは、神の中に生き存在するものだ」。それは、わたしたちが、自分自身で立っているのではなく、神によって立たされているということ、つまり、神なくしては,わたしたちの存在は成り立たないということです。

 今日の聖句(2)も同じことを言おうとしています。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝である」とあります。枝というものは、幹がなければ存在しない。幹と枝は一体なのです。それと同じように、わたしたちは、主イエスとつながっていなければならないのです。

 この「つながっている」というは、大変大切な言葉です。わたしたちは、主イエスにしがみついていなければなりません。決して手を離してはならないのです。手を離した途端、わたしたちの命は枯渇してしまいかねません。しかし、つながっていれば、豊かな実を結ぶことができる。「豊かな実」は、単に神さまに「いい子だね」と誉められること