| バックナンバーはこちら |
――今日の聖句――
<「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい。」>[ヨハネによる福音書 13:31−35]
「新しい掟」と言われて弟子たちは期待していたでしょう。すごいことを託されるのではないかと。しかし新しい掟が「互いに愛し合いなさい」ということでした。これは全く新しくありませんでした。律法の要約でありそれまで何回も言われたことです。なぜ弟子たちにイエス様は新たなる愛について語っておられるのでしょうか。イエス様は十字架上で死なれ、復活されますが、弟子たちから離れることになります。共同体のリーダーがいなくなるとその共同体は危機状況に陥る可能性が高くなります。特にイエス様の死後、弟子たちの間にイエス様の死に対する責任転嫁を巡って争いが起きる可能性も高いです。ずっとたまっていた不平不満が爆発するかもしれません。また復活後においても誰が偉いか、あるいは共同体のリーダーを巡って権力闘争が起きるかもしれない状況でした。その危機的な状況を乗り越えられるのは「互いに愛し合いなさい」ということであると、イエス様は遺言として残しました。またイエス様が受けられる苦難と死によって、また復活後の昇天という出来事によって一人歩きをしなければならない、また教会共同体の建設という使命を担わなければならない弟子たちに対して、あらゆる苦難を乗り越え、共同体を守っていく力と勇気と知恵を与えるためでした。それが「互いに愛し合う」ことです。
「互いに愛し合いなさい」はどのように実践すればいいのでしょうか。愛の実践というのは、教会においてはあまりにも慣れてしまった言葉であるため難しいテーマでもあります。今日一つだけ皆さんに申し上げます。「クリスチャンにおける愛とは、神様と一つになることであり、神様に対する愛によって神様と近くなればなるほど、隣人とも愛によって結ばれるようになること」です。愛とは三角形のようなものです。三角の一番上に神様がおられます。そして両下に人々がいます。人々が互いに近くなれることによって神様とも近くなるという意味になります。「クリスチャンにおける愛とは、神様と一つになることであり、神様に対する愛によって神様と近くなればなるほど、隣人とも愛によって結ばれるようになること」です。今わたしたち教会における愛は神様に対する愛だけ、隣人に対する愛だけは成り立つことはできません。神様に向かい互いに三角を上らないと神様に対しても、隣人に対しても愛することはできません。
「互いに愛し合いなさい」という掟にたいする実践を考えるとき、三角を思い出してください。またわたしたちはキリストの愛によって結ばれている存在であることを黙想しながらこの一週間を過ごしたいと思います。
(副牧師 卓 志雄)
――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 10:22−30]
イエスの語る命の言葉を受け入れないユダヤ人たちは、イエスを神への冒涜者として訴えたい思いに満ちて、イエスの語る言葉を信じません。そして「いつまで、私たちに気をもませるのか。」と怒りと苦悩にとらわれます。「いつまで、私たちに気をもませるのか。」という彼らのこの発言は、聖書の原文では「いつまで、私たちの生命力を取り上げるのか。」という表現になっています。神は御子イエス・キリストを通して、私たち一人一人に、惜しみなく命の力を与えようとされています。その神の恵みを否定するユダヤ人たちは、まさに自分たちの生命力を取り上げられている状態です。
一方、イエスはそのユダヤ人たちに、イエスの声を聞き分ける羊についてのたとえを語ります。羊たちは自分たちを命の草と水のありかに導く、自分たちの良い 羊飼いの声を聞き分けます。なぜなら、羊たちは命を求めているからです。命を求める者は、神の言葉、神の声を聞き分け、そのことを通して生かされようと願 うのです。そう願いなさい、とイエスは私たちに語りかけます。
神は「言葉」をもって私たちに臨在されます。イエス・キリストは、神の言葉、命の言葉そのものとして、私たちに語りかけるのです。なぜなら、「わたしと 父とは一つである。」(30節)からです。
(司祭 高橋 顕)
――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 21:1−14]
今日の福音書には食べ物が二つ登場します。「魚」と「パン」です。ヨハネによる福音書を書いた人が活動していた時は、すでに教会の共同体が形作られた時期であると言われています。彼らは聖餐式を通して主イエス・キリストを賛美し陪餐を通してイエスさまの現存を体験していたと考えられます。21章の12節には「イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを 知っていたからである。」と書いてあります。「魚」と「パン」という食べ物というものがイエスさまを思い起こさせるものであったということを暗示させる部分です。すなわちイエスさまを思い起こさせるに十分な「思い出」のものでした。復活されたイエスさまとイエスさまの死によって逃げてしまった弟子たちの関係をつなげる媒体となりました。復活されたイエスさまの現存を確信させる媒体でした。復活後のイエスさまの現存をあらわす大切なモチーフとなりました。
この食べ物の話は聖書に記された過去の物語にとどまらず、今もわたしたちに伝えられイエスさまを思い起こさせる大切な儀式として受け継がれています。それは「聖餐式」です。聖餐式の中でパンとブドウ酒にあずかることは、ただ洗礼堅信を受けたから信者として何にも考えずにもらって食べることではありません。陪餐は、2000年前イエスさまが言われたこと、「取って食べなさい。これはあなたがたのために与えるわたしの体です。わたしを記念するため、このように行いなさい」、「皆この杯から飲みなさい。これは罪の赦しを得させるようにと、あなたがたおよび多くの人のために流すわたしの新しい契約の血です。飲むたびにわたしの記念としてこのように行いなさい」と聖餐式の感謝聖別文に書いてある通りイエスさまの行いとみ言葉を思い起こすために制定されたものです。またそれだけではありません。わたしたちがあずかったパンとブドウ酒はわたしたちの体に入り「わたしたちは常にキリストにおり、キリストは常にわたしたちにおられますように」と陪餐の前に祈りを唱えながらわたしたちは主イエス・キリストの神秘を体験します。この神秘は非常に大切なものです。2000年前教会が始まり今まで歴史、地域、文化、制度、思想などによってキリスト教の形は大きな変化が持たされました。しかし変わってないものがあります。またこれから変わらない普遍のものがあります。それが聖餐式です。本当に大切な神秘です。
この説教が終わると聖餐式の最後は陪餐の恵みが与えられます。今まで何にも考えずに「司祭がくれるから」、「洗礼堅信を受けたから」、「なんとなく」、「習慣的に」と陪餐を受けたのであれば今日から陪餐の神秘を体験してみてください。イエスさまを思い起こす神秘、またイエスさまがわたしの体の中に入りイエスさまとわたしが一体となる神秘を体験してみてください。パンとブドウ酒は御体と御血になって皆さんを生かしてくださる皆さんの営みの原動力となっていくことは間違いありません。
(副牧師 卓 志雄)
わたしたちは教会に通いながら「赦し」という言葉を良く口にします。しかし「赦し」の本当の意味に気づかないで使っているのではないでしょうか。わたしたちが慣れている聖書における復活の話に関する先入観を捨てて、わたしたちの常識から「赦し」について考えましょう。
わたしはあらゆるジャンルの映画が好きですが、ホラーとアクション、戦争映画が好きです。わたしにとってはそれらのジャンルから人間が見えるからです。たとえばアクション映画あるいは戦争映画を見ると、最初は正義の味方である主人公は大変な目に遭います。ぬれぎぬを着せられ、苦しめられ、苦難を受け、家族を失い、自分もけがをし、「とにかく」やられっぱなしです。しかし主人公はパワーアップします。力が強くなります。良いチャンスが訪れたら大逆転です。カッコいいリベンジが始まります。わたしも正義の味方である主人公の仲間となり、敵に向かって「ほらね!正義は負けないんだよ!すごいだろう!正義の力は…!」と叫びます。イエスさまの復活を迎えるわたしたちはどうですか。ただ第3者になって「主イエス・キリストのご復活を喜び申しあげます」と言いますが、心の中には「なぜイエスさまはユダヤ教の宗教指導者、ユダヤ人、ローマ軍隊」にカッコいいリベンジをしないのかと思ったことはありませんか。彼らに向かって「ほらね!正義は負けないんだよ!すごいだろう!正義の力は…!」と叫ぶ姿を想像したことはありませんか。
イエスさまは復活されてリベンジはしませんでした。ご自分を殺した人々に対して一切リベンジはしませんでした。彼らを赦してあげました。その証拠が今日の福音書です。ご自分は彼らを赦しご自分がなさったように弟子たちにも「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われました。わたしは同じ発音の「許し」と「赦し」の違いは「赤い」血のような犠牲が伴うか否かによるものではないかと思います。聖書が用いる「赦し」はやはり犠牲が伴っている意味での「赦し」です。犠牲の伴わない「許し」はだれにでも可能なことかもしれません。しかし、犠牲が伴うとき、それは「許し」ではなく「赦し」になります。「赦し」が伴う、はかりがたい犠牲というものを知った者がキリスト者です。イエスさまが受けられた苦しみと死は計り知れません。そこに現わされた罪びとに対する神さまの愛も計り知れません。そのはかりがたい犠牲と愛を幾分かでも知り信じている者がキリスト者です。しかし正直に「赦し」って難しいことです。お金がかかることでも時間がかかることでもないのになかなかできないことです。キリスト者が生きることは、繰り返しキリストによって受けた「赦し」に立ち戻って、そこから生きるということです。今すぐできないことが「赦し」ですが、今日の福音書を聞いたわたしたち、赦しについてより真剣に考えてやってみましょう。
何故やらなければならないかというとわたしたちはイエス・キリストの命令に従う「キリスト者」だからです。
(副牧師 卓 志雄)
主イエス・キリストのご復活おめでとうございます。わたしたちはイエスさまのカッコいい勝利だけを、復活だけを喜んでいるのではないと思います。わたしたちが喜んでいるのは、イエスさまの復活がわたしたちとつながっているからです。イエスさまが復活されたことにより、イエスさまとつながっているわたしたちにも復活の賜物が与えられたからです。「希望」という賜物が与えられたのです。
旅行をする時、長いトンネルを通り抜ける経験をします。トンネルを通り抜けて暗闇から光が見えると、新しい場所が見えてきます。新しい出会いが待っています。目的地により近付くことになります。長いトンネルは、いつかは終わり新しい場所、出会いが待っているという希望がないと、わたしたちは絶望するばかりだと思います。わたしたちの人生も長いトンネルを走ることと同じだと思います。わたしたちは生きていながら長いトンネルを良く経験します。いつ終わるか分からない絶望が日々訪れてきます。あってはならないと、あるはずがないと、思っている人生の苦しみ、痛み、悲しみなどの不条理の連続です。その暗くて長いトンネルがいつ終わるかと思いがちです。また人生の最後の瞬間、死というトンネルがわたしたちを待っています。ずっと暗くて長いトンネルかもしれません。しかし復活されたイエスさまは死から復活されたご自分の栄光の福音をわたしたちに語っておられます。「トンネルが長いと思うかもしれないが、トンネルは終わるんだよ、もうすぐ光が見えてくるからもう少し頑張ってね」と。「トンネルを通り抜けるとまた長いトンネルが待っているんだけれども、心配しなくてもいいんだよ。トンネルの先には終わりがあるから。トンネルを通り抜けたら光が見えあなたが目指している目的地に行けるからもう少し頑張ってね」とイエスさまは言われています。
主イエス・キリストの復活を告白するわたしたちには何の恐れもありません。主イエス・キリストの福音を信じることにより、主にあって新たなる希望が与えられることは明らかであるからです。長くて暗いトンネルの先に何があるのか人間の知恵でははっきり分からない時がよくあります。しかし心配しなくていいのです。主イエス・キリストは終わりのないトンネルはわたしたちに与えることはしません。また必ず暗くて長いトンネルの先には、わたしたちを良い目的地に導いてくださる希望の光が照らされることをイエスさまは約束しました。復活されたイエスさまに対する信仰はイエスさまが希望の光を常に照らしてくださるということを固く信じることです。
イエスさまはご自分の復活を通してわたしたちに希望の福音を与えてくださいました。わたしたちは「本気で」主イエス・キリストの復活を喜びましょう。
(副牧師 卓 志雄)
――今日の聖句――[ルカによる福音書 20:9−19]
イエスはぶどう園の農夫たちのたとえ話をされました。古代の世界では、ぶどう園のぶどうの収穫の時は、実りの恵みを受ける喜びの時であると同時に、ぶどう 園の主人とその労働者たちが互いに結んだ労働雇用の契約の履行の成就が決定する、重要な時でもありました。収穫の時に、労働者である農夫たちは、契約通り の労働の最終的な収穫という重要な局面を迎え、正しく主人に収穫を納め、主人もまた農夫たちに契約通りに収穫の利益の分配をしました。ぶどう園の主人と労 働者たちは、お互いに「信頼」の関係のうちに共に生きており、そのことはまた、お互いに結び合った契約を守り実行するという「正しさ」が保たれている関係 に生きていることでした。しかしイエスが本日の福音書の箇所で語るぶどう園の農夫たちの姿は、その「信頼」と「正しさ」を自ら壊し、何度もぶどう園の主人 の側からその回復を働きかけられても、農夫たちはその回復の働きかけをも、壊し、否定していく、というものでした。その結果、その農夫たちは決定的に裁かれ、滅ぼされてしまいます。
イエスはこのたとえ話を通して、神はそのみ心の奥底から、ほんとうに、私たちが神に立ち帰ることを切に望んでおられる、ということを教えられます。それ は、ぶどう園の主人が、農夫たちに契約通り収穫を納めるようにと、何度も、自らの僕や自らの跡取り息子を派遣した出来事に表われています。何度も本来の関 係に立ち帰るように農夫たちに呼び求めている主人の姿。それは神にこそ立ち帰るようにと私たちを呼び求めている、神自らの姿です。「神との信頼」と「神へ の正しさ」のうちに、私たちがますます生きていくことへと、神自ら、そしてそのために遣わされたみ子イエス・キリストは、私たちを招いておられるのです。
(司祭 高橋 顕)
――今日の聖句――
<イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。>[ルカによる福音書 7:12−13]
私は、今月末で、70歳の定年退職を迎えます。今日は現職としての最後の説教となります。10年前、60歳で初めて牧師に就任したとき、これからの抱負として、ローマの信徒への手紙12章の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉を引用し、このような牧師になりたいと申し上げました。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とは、言うまでもなく、皆さんお一人ひとりの気持や感情――喜び、悲しみ、苦しみ、悩み、怒りに深く共感し、その気持ちに寄り添いなさい、ということです。しかし、この10年、それが如何に難しいか、身に染みて感じさせられる日々でもありました。
「共感」を、英語でいえば、シンパシーとかコンパッシヨンという言葉になります。ギリシャ語やラテン語が語源で、シンとかコンは「共に」という意味、パシーとかパッションは苦難、苦痛を意味しています。つまり、「共感」とは、その根源をたどれば、「苦しみを共にする」ということになります。しかし、人間には、他者の苦しみや悲しみに共感するには大きな限界があります。 最近、奈良で、4歳の男の子が食べ物を与えられず、「お水をください」と哀願しながら餓死していったという事件が起きました。このようなニュースを聞くとき、誰しもが言いようのないやるせない痛みを感じます。しかし、所詮、その事件も、わたしたちにとっては、見知らぬ他人の出来事であり、次から次へと起こる同種の事件と同じように、何の痕跡も残さず過ぎ去っていきます。
しかし、ただ一人、唯一の例外である方がおられます。それが、イエス・キリストです。 ルカによる福音書の7章に、「ナインの町で、イエスが、やもめの一人息子を生き返らせられる物語」があります。今日の聖句はその一節です。ここに、「憐れに思い」いう言葉があります。この言葉は、原語(ギリシャ語)では「腸(はらわた)が捩れるような苦痛を感じる」という意味です。イエスは、一人息子を失ったやもめを見て、「腸が捩れるような苦痛」を感じられたのです。
この「憐れに思う」という言葉は、ルカによる福音書では3箇所に用いられています。他の二つは、「放蕩息子の物語」と「善いサマリア人の物語」です。いずれの物語でも、聖書は、他者の悲惨な姿に、「腸の捩れるような苦痛」を感じるのは、それは、イエス或いは神でしかありえない。神だけがそのような苦痛を感じられるのだ、ということを言おうとしています。イエスだけは違う。イエスだけは誰の苦しみにも、どんな苦しみにも、「腸の捩れるような苦痛」を感じてくださる、共に苦しんでくださる、真実共感してくださる。イエス・キリストとはそういう方なのだ。イエスだけが人間の限界を乗り越えられたのだ、というのが聖書のメッセージです。
その延長上というか、行き着いた終着点がイエスの十字架ではなかったでしょうか。イエスは、十字架上で、すべての人の苦しみに、ただ腸だけではなく全身でその苦痛を身に受けられたのです。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。今考えると、とんでもない抱負を語ったものと後悔しますが、しかし、わたしたちも、人間としての限界の中で、前に進むことはできます。アメリカの有名なカウンセラー、カール・ロジャースが、いみじくも言ったように、「全く同じように感じられなくても、あたかもそのように感じること」はできるかも知れないのです。そのような努力が、わたしたちの「愛」ではないでしょうか。
(協力司祭 広沢敏明)
――今日の聖句――[ルカによる福音書 13:1−9]
今日の福音書に登場する悔改めについて、また悔い改めの前提となる罪について皆さんと共に考えたいと思います。「悔い改め」あるいは「懺悔」などを聞くと、わたしたちはひざまずいて「ごめんなさい」、「二度としません」というイメージを描きます。しかし聖書は悔改めについてギリシャ語で様々な言葉で表現していますが、共通する理解は「ある道を歩いていた時、間違ってその道に入ってしまったことに気づかされ、方向転換をすること」を意味しています。すなわち、「考え直す」、「転換する」、「立ち帰る」、「反対方向に向かう」ことです。
先ほど申し上げましたように、一般的には悔い改めというのは、罪を犯したということが前提となり、成り立つことです。ではわたしたちはどんな罪を犯したのでしょうか。罪の聖書的意味について説明すると、理解しやすくなると思います。聖書における日本語の「罪」という言葉は様々なヘブライ語、ギリシャ語から翻訳されていますが、旧約聖書に522回、新約聖書に227回、最大登場する罪に当たる言葉は、本来「的外れ」を意味します。犯罪などの悪事を「罪」と呼ぶのではなく、わたしたち人間が本来進むべき方向から道をそれ、的を外れた生活をすることを、全て罪と呼んでいるのです。また的から外れたことだけではなく、他の的に向かって撃ったことも意味します。「意図しない失敗によって的から外れたこと」および「最初から的を意識しないで外したこと」が罪です。神さまという究極的な的を狙わないで全く違う的を狙うことを聖書では罪と言います。射撃を想像してみてください。人が銃弾を撃つ時、的に当てることができなかったのは、銃弾を撃ち間違っただけではなく、きちんと標的を見て狙わなかったからです。きちんと意識をして狙わないと、撃つ前からすでに的外れになっているに違いないと思います。これは人間の罪にも適用できます。わたしたちの視線は常に神さまにとどめるべきです。わたしたちが神さまに視線をとどめないと何をするにしても行いは罪につながってしまいます。すなわち、的外れになってしまいます。的から外れた時、行うべきことが悔い改めです。すなわち、考え直して方向転換をすることです。的をきちんと意識して狙いなおすことが悔い改めです。
しかし悔い改めはわたしたちの力だけではできません。きちんと狙うことができるように、またもう1回打ってもいいよ、とチャンスを与えて下さる方の恵みが必要です。すなわち、イエスさまの力と恵みが伴われなければなりません。今日の福音書のたとえ話はそれについて語っています。実を結ばないいちじくの木はわたしたち罪人を意味しています。3年間実を結ぶことができなかったので主人は切り倒すと言います。神さまの前で良い実を結ばないわたしたちを審判するという神さまの言葉です。しかし園丁は1年間のチャンスを与えてくだされば、木の周りを掘って、肥しをやると言います。その園丁はイエスさまです。イエスさまは最後のチャンスとしてご自分の愛の肥しを通して、わたしたちが良い実を結ぶことができるようにしてくださるとのことです。悔い改める主体はわたしたちですが、やはりわたしたちの力だけではなく、わたしたちの決断とそれに伴われるイエスさまからの恵みによるものです。
大斎節を過ごしている今、悔い改めはもちろんわたしたちの悔い改めのためいつも共におられるイエスさまの恵みについても深く考えて行きたいと思います。
(副牧師 卓 志雄)
――今日の聖句――[ルカによる福音書 13:31−35]
イエスは町や村を巡って教えを述べ、病人を癒し、エルサレムへ向かって進んでおられました。その途上のある町で、イエスに何人かのファリサイ派の人々が近 寄って来て、イエスに立ち去るように要求します。そして支配者であるヘロデ王までもがイエスに殺意をもっていると言い、ファリサイ派の人々はイエスを脅します。
このファリサイ派の人々に対して、イエスは二つの思いを語ります。一つは、ヘロデ王への伝言を通して語ります。イエスは、どんな状況となっても自分は神の み心を全うする、ということを、ヘロデ王へ伝えるようにと、ファリサイ派の人々に言います。そしてイエスは、ファリサイ派の人々に、そのヘロデ王がいるエ ルサレムへ自らは行かなければならない決意を示します。エルサレムへ行かなければならない理由は、「すべてを終える」ためです。それはすべての人を救うと いう神のみ心が実現されるために、自らが十字架にかかり、そして三日目に復活するという出来事がなされるためです。
イエスがファリサイ派の人々に示したもう一つは、都エルサレムのために嘆く思いでした。エルサレムには神殿と最高法院があり、そこはイスラエルの中心、そ のイスラエルの権力の中心でした。そのエルサレムで、神の言葉を宣べ伝えたかつての多くの預言者たちが殺されてきました。かつての預言者たちは、エルサレ ムの人々が神の恵みと愛に立ち返ることを、命をかけて叫び続けてきましたが、神から離れた宗教的指導者たちや政治的指導者たちによって、その預言者たちは 殺されてきました。それは、めん鳥が雛を羽の下に集めて雛たちを守ろうとしたのに、雛たちがそのめん鳥を殺してきたという、あまりにも悲痛な光景にたとえ られます。イエスはそのようなエルサレムのために嘆かれました。神の恵みと愛という羽の下に集められ、包まれているエルサレムの人々。しかしその人々自身が、神の恵みと愛に心を向けて、神のみ言葉に聴こうとしなけれ ば、決して救われません。このイエスの嘆きは、私たちへも問いかけをもって聴こえています。
(司祭 高橋 顕)
――今日の聖句――[ルカによる福音書 4:1−13]
クリスチャンというのは「誘惑の海」の只中で波に打たれてさすらう小さな船に乗っている人のような存在だと考えます。誘惑は小さな船を取り囲んでいる海のようにわたしたちを取り囲んでいます。周りは全部水ですが、それは飲んではいけない海水です。喉が渇いたからといって海水を飲むと、より喉の渇きは激しくなり死んでしまいます。悪魔はこういう時、ささやきます。「飲んでいいよ!飲んでみれば?」、「1回だけなら飲んでいいんだよ」、「1回だけ飲んでやめればいいんだよ」、「1回飲むだけでは死なないよ」と。わたしたちの人生においてもこのような場面は多くあります。「してはいけないことに対してしてもいいんだよ」という、「しなければならないことに対してしなくていいんだよ」という悪魔による誘惑の場面です。
大斎節第1主日の福音書には、イエスさまが悪魔から誘惑を受けられる場面が記されています。悪魔は物質の渇きを感じる人にはお金の誘惑をします。名誉の渇きを感じる人には名誉の誘惑をします。権力の渇きを感じる人には権力の誘惑をします。すなわち、誘惑というのは悪魔が主体になって人間を対象にするものです。何かに対する喉の渇きを解決しようと試みますが、よりひどい喉の渇きを感じるようにさせるのが誘惑です。人間を罪に陥れる悪魔の一番力強い武器が誘惑だと考えます。知らず知らずのうちに、わたしたちを取り囲み、わたしたちを罪におちいらせ神さまとわたしたちとの関係を遠ざける「誘惑」、すなわち「海水」のようなものはどういうものでしょうか。特に自分にとって「海水」とはどういうものでしょうか。自分にとって神さまとの関係遠ざける、隣人との関係を遠ざける、罪におちいらせる誘惑はどういうものでしょうか。
神さまに識別の力を与えてくださいと祈りましょう。また自分における「誘惑」が分かったら、イエスさまが教えてくださった主の祈りに記されているように「誘惑におちいらせず」という祈りを絶え間なくささげ主のみ旨にかなう行いができるように、主イエス・キリストの復活を待ち望みながら2010年の大斎節を過ごしている今、皆さんと共に努力して行きたいと思います。
(副牧師 卓 志雄)
――今日の聖句――
<イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去 ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。>[ヨハネによる福音書 8:6−9]
総じて、自分の説教が、どのように聞かれているのか、未だに判然としません。しかし、私自身としては、説教準備は苦行ではありましたが、それを通して多くのものを得てきたように思います。
説教準備は、端的にいえば聖書を媒介として、神と語り合うことです。その意味で、説教準備は「祈り」そのものといってもよいかもしれません。わたし共の教会では、ビジョンとして、「イエスの心を生きる」を掲げていますが、あくまでそれは目標であって、誰もその通りには生き切ることなどできないでしょう。聖書は、日々の出来事について、「お前はどう思うのか」、「お前のやっていることはそれでよいのか」と問いかけてきます。その中で、自分の隠れた心もあらわになってきます。見たくない自分を見ざるをえなくなります。自分自身の心の闇のようなものが見えてきます。
つまり、説教準備という作業は、丁度、ネジのように、わが身を捻りながらこの世界と人間の深みに降りていくようなものです。「深く生きる」とでも言えばよいのでしょうか。この作業を通して、たとえ「イエスの心を生きる」ことはできなくても、少しは「深く生きる」ことができるようになった気がします。日々の営みの中で、葛藤、動揺しながらも、少しずつでも、この世界や人間の深みに触れることです。
物事にはすべて、光と影、表と裏があります。聖書は、この光と影、表と裏を鮮やかに見せてくれます。この世界にも人間にも、すばらしいところが沢山ありますが、その反対に、不条理で残酷極まりない面も沢山あります。この表と裏、光と影の両方を見ることによって、生き方は深まっていきます。説教準備は、その両方を見せてくれます。「深く生きる」とは、世界や人間が、そのような両面を持つものとして、付き合い、味わい、楽しんでいこうとする生き方です。
今日の聖句は、「姦淫の女」と呼ばれる物語の一部です。イエスの前に、不倫の現場で捕らえられた一人の女が寝巻き姿のままで連れてこられます。当時の法律、つまりモーセの律法では、不倫の現場で捕らえられた者は石打ちの死刑に処せられることになっていました。人々は、愛や赦しを説くイエスならどうするかと思い、イエスを試そうとして連れてきたのです。この物語は、歴史上いろいろ物議をかもしてきたようですが、今日は、イエスの言葉が、わたしたちの心の暗闇を照らし出す物語として、また、人間一人ひとりの隠された悲しみや痛みを見つめるイエスの眼差しに触れる物語として読みたいと思います。「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去った」というのは、大変興味深いことです。歳の多い分だけ多くの罪を犯してきたかもしれませんが、また、この世の不条理、悲しみ、痛みにもそれだけ多く経験してきたということではないでしょうか。
イエスの言葉によって、わたしたちもこの女や女を連れてきた人々と違わないことに気づかされ、イエスのこの世で苦しんでいる人々や差別されている人々の悲しみや痛みに注がれる眼差しに気づかされます。
ネジは深く入るにしたがって安定してきます。わたしたちは、病気や死、人間関係などの多くの「恐れ」に囲まれています。「深く生きる」ことは、それらの恐れに出遭うとき、簡単には倒れないことでもあります。
(協力司祭 広沢敏明)
――今日の聖句――[ルカによる福音書 5:1−11]
今日の福音書のみ言葉がわたしたちに語っているのは、イエスさまの前で何かを捨ててあきらめることではなく、イエスさまに従うことではないかと思います。すなわち、「わたしは何を捨てなければならないのか」に焦点を合わせるのではなく、「イエスさまに従うこと」に焦点を合わせなければならないということです。
もし「何かを捨てなければならない」ということに焦点を合わせて、教会のために財産を捨てて莫大な献金をささげなければならないと、会社を辞めてずっと教会に来て奉仕をしなければならないと、自分の時間を全部教会の奉仕に費やさなければならないと考えるのであれば、また自分を「捨てること」が目的となり捨てる自分を誇りと思うのであれば、これは、外見上の信仰や清らかさの裏に邪悪な欲望が隠されていて偽善者と呼ばれていたファリサイ派と変わらない姿ではないでしょうか。弟子たちが網を捨てたのはイエスさまに従うために自分の営みの中で決めた「信仰の決断」です。すなわち、船と網を捨てたことが立派だったのではなく、イエスさまに従ったことが立派な行いであったと思うのです。捨てることは従うことの決断に伴う自然な結果であります。そのため、いかに捨てた自分が多くても、ささげたことが多くても、奉仕したことが多くてもその中心がイエスさまではなく、自分を中心にしたのであればイエスさまに喜ばれることではないと思います。
寒い冬の朝、しかも休日にもかかわらずわたしたちは教会に来られました。わたしたちは寝坊も、遊びも、仕事も捨てました。だからわたしたちは今日教会に見えなかった方々より立派でしょうか。決してそうではないと思います。今日わたしたちが教会に来たのは、イエスさまに従おうとする信仰の一部分をあらわしたことに過ぎないと思います。
捨てることは目的ではありません。捨てることは従うことの決断に伴う自然な結果であります。何を捨てなければならないのか。何をあきらめなければならないのか。何をささげなければならないのかについて悩むよりは、どのようにしてイエスさまに従い、教会のテーマである「イエスの心を生きる」ことができるかについて考えるわたしたちになって行きたいと思います。
(副牧師 卓 志雄)
――今日の聖句――[ルカによる福音書 4:21−32]
昨日行われた聖職按手式にお越しいただき、またお祈りをもってお支えくださいましたこと、本当にありがとうございました。
今日の福音書には、キリストの言葉には権威があったので、人々はその教えに非常に驚いたと記されています。新約聖書において「権威」という言葉は、能力、力、支配力、影響力、威力という意味もあります。キリストの代理者となる司祭にもキリストからの「権威」が与えられていると思います。今日における司祭の「権威」とはどのようなものでしょうか。
司祭按手式が終わってから、これからどのような司祭になればいいのかについて考えました。人々は司祭に対して評価をする時、「あの先生は活動的な司祭だ。人の良い司祭だ。説教が感動的だ。バランスがとれている。頭がよく勉強家だ。」という言葉を口にします。しかし「あの先生は常に祈る司祭だ。」という話はあまり聞いたことがありません。もちろんイエス様は祈るときには見せかけの長い祈りをしてはならないと言われましたが、最近祈る司祭のイメージはあまり与えられていないのではないかと思います。司祭における「祈り」というのは、神様は我にとって絶対必要な存在であり、我が救い、我が命、我が愛、我のすべてであることを頭で考え、口で宣べ伝え、心で信じることの始まりであると思います。また司祭の真なる働きおよび牧会を可能にする原動力であると思います。司祭における「権威」、「能力」、「力」、「支配力」、「影響力」、「威力」というのは人間的な部分から出るものではなく、神様との対話である「祈り」から自然に出るものであると思います。
司祭はキリストの代理者としてキリストを模範とする人間です。一人の人間がキリストの代理者になることは難しいことでしょう。キリストに従い、すべての人のすべてになり、自分を徹底的にささげる生き方は、弱い人間の限界を超える要求であると思います。事実弱い人間の力ではできないことです。そのため「祈り」によらないと神様の働きに参与することはできないと思います。「祈り」によらないと真なる司祭の働きおよび牧会はできないと思います。「祈り」によらない牧会はただ牧会の真似にすぎないのではないかと思います。これからは「祈る」司祭になって弱い人間でありながらもキリストにあやかる者になりたいと思います。絶えず祈りながらパウロの言葉をいつも心に留めたいと思います。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピの信徒への手紙4:13)」
司祭になったばかりのわたしだけではなく、わたしたち皆祈るクリスチャンとなって神様に喜ばれる道を共に歩んでいきたいと思います。
(副牧師 卓 志雄)
――今日の聖句――[ルカによる福音書 4:14−21]
イエスは育った故郷のナザレで伝道を始めました。皆が会堂に集まって礼拝をする安息日に、イエスは会堂に入り、預言者イザヤの書の箇所を朗読し、教えを語り始めました。イエスが朗読したイザヤ書の箇所は、かつて預言者イザヤが神の霊を受け、貧しく苦しんでいる人や虐げられている人に「解放」と「自由」の知らせを伝える使命を、自ら宣言する箇所です。イエスはこの箇所を伝道のはじめに人々に読み聞かせました。そしてイザヤの、「解放」と「自由」に人々を導くこの喜びの宣言は、今まさに、イエスがおられる今日、実現した、とイエスは明言します。
イザヤが人々に語り、イエスが実現を明言した「解放」と「自由」という言葉は、聖書の原文のギリシア語で、どちらも「アフェシス」という単語が用いられています。この「アフェシス」という言葉には、二つの意味がこめられています。一つは、すべてが赦されてまったく自由になる、という意味です。もう一つの意味は、解放されて本来のところへもどる、という意味です。
イエスは自らの生涯を通して、その言葉と行いによって、この「解放」と「自由」を、私たち一人一人に与えて下さったのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」とイエスは言います。「解放」と「自由」がイエスによって私たちに実現した今、私たちは、どのような自由の姿で、本来のどこへもどるべきなのでしょうか。そのことが本日の福音書の箇所を通して、私たちに問われています。
(司祭 高橋 顕)
――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 2:1−11]
今日の箇所の中心となる部分は最後の11節です。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」。ここでは奇跡という言葉より「しるし」と書かれています。ここからは「最初」と「栄光」に焦点を合わせたいと思います。「最初」という言葉はギリシャ語原文から考えると一番目という意味以外に「根源的」、「本質的」という意味があります。というのは、カナでの奇跡はイエスさまの公生涯における初めての奇跡であるだけではなく、根源的あるいは本質的なしるしであるということだと思います。また「栄光」ですが、聖書における「栄光」というのは、人を対象にして使うことはできません。栄光は神様だけを対象にして用いられる言葉です。
「神の栄光」についてですが、創世記を思い出してください。神さまが世界を創造された時、「〜あれ」という命令を出されました。すなわち、「混沌」と「無」から「秩序」が「ある」ようにしてくださいました。人間の混沌、すなわち死、悲しみ、悪を命、喜び、善として「ある」ようにしてくださいました。したがって創造が終わるたびに「良し」とされました。また神さまは神の栄光を人間、ことにユダヤ人にゆだねました。神さまにゆだねられたユダヤ人はユダヤ教という形をもって神さまに応えようとしましたが、ユダヤ教の律法や掟がむしろ人を束縛し罪人とする手段となってしまいました。そこで神さまはイエスさまをこの世に送られイエスさまを通して本来の「神の栄光」を現そうとされました。今日の福音書の中の水が入っていた六つの水がめは、書いてある通りユダヤ人が清めに用いる物でした。しかし水がめの中の水にたとえられているユダヤ教の無能力さはイエスさまによって価値あるものと変えられました。宴の喜びを生かす価値あるものとして水はブドウ酒に変えられたのです。
今わたしたちは顕現節を過ごしています。顕現とは、もともと人の目には見えない神の本質が目に見えるものとなって現れる事であります。顕現節が始まる顕現日は、星をしるべに東方の博士たちが、生まれたばかりのイエスさまを礼拝したことの記念日です。顕現節第1主日は洗礼者ヨハネによってイエスさまが洗礼を受けられる話です。今日の福音書はイエスさまがただ外見的に現われたことだけではなく、神の栄光を現したことをのべています。
わたしたちは祈りの中でよく「み名の栄光を現すことができますように」と唱えます。というのは、イエスさまが神の栄光を現し、人間の混沌、すなわち死、悲しみ、悪を命、喜び、善として「ある」ようにしてくださったことを信じ、わたしたちもイエスさまの働きに参与するということを意味しています。またわたしたちの営みにおける死、悲しみ、悪を命、喜び、善として「ある」ように変えて行くことを意味しています。先ほどの「み名の栄光を現すことができますように」あるいは「主の栄光を現す者となりますように」などの祈りを唱える時、意味もわからず唱えるのではなく、「神の栄光を現したイエスさまのように生きます」という覚悟で祈るべきです。しかしそれはハードルが非常に高いかもしれないので、「神の栄光を現したイエスさまのように生きることができますように助けてください」という思いを祈りにのせましょう。それが我が教会のメインテーマである「イエスの心を生きる」ことの始まりであると固く信じます。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――
<いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。>[テサロニケの信徒への手紙 5:16−18]
今日の聖句は、2009年の練馬聖ガブリエル教会の「今年の聖句」として選ばれた個所でもあります。この聖句を愛唱されておられる方も多いと思います。使徒パウロは、それまで、信仰生活についていろいろ書いてきた最後に、「信仰生活はこれに尽きる」と言っているのです。その意味で、わたしたちが目指す高い山の頂きなのですが、それだけに、なかなか難しい問題も含んでいるように思います。
昨年の12月26日、NHKテレビで、『働き盛りのガン』という特集が放映されました。5、6人のガンを経験された方々が出演されていましたが、ガンを告知されたときの全身から血が引くような感覚、足元が崩れ落ち地の底に引き込まれるような感覚を、共通して語っておられました。
私は、このようにガンの告知を受けたような時でも、「喜ばねばならないのか」、「感謝しなければならないのか」、「祈ることすら出来ない心の動揺が分かりますか」という質問を受けることがよくあります。
テサロニケの信徒への手紙(T)は、パウロの最初の手紙で、西暦49年頃書かれたと言われています。イエスの十字架上の死から15年程が過ぎています。パウロが、その間、どこで、どのように過ごしたのか、そして、どのような事があってこのような信仰生活の境地にたどり着いたか、詳しくは書かれていません。
私は、パウロがたどり着いたこの境地は、数学で言えば結論、登山で言えば高い山の頂上だと思っています。ですから、結論だけ突きつけられると、時によっては、返って現実から遊離したそらぞらしいものになったり、或いは信仰をゆがめてしまう危険――そのようなこと要求する神はわたしの神ではないと思う――さえあるのではないでしょうか。
人間は、一人ひとり、感性も理性も経験も、また環境も違います。ですから、一人ひとり、違ったルートで頂上を目指すことになります。この聖句が、信仰生活が目指す最高の高みを示しているにしても、それは強制されたり、鵜呑みするものではなく、一人ひとりが自分で感じ、考え、経験して、初めて納得できるものなのです。
先ほどのテレビ番組で、一人のガンを経験した若い女性が、このように語っておられたのが印象に残りました。「病院や医師の対応が不満で、納得がいかず、カルテの開示を要求した。カルテを読んでいくうちに、自分のような者一人の病気のために、こんなにも多くの人たちが、こんなにも多くの時間と労力を使っていただいていることに気づかされた。そうしたら、次第にそれまでの怒りや不満が鎮まり、むしろ感謝の気持ちが湧いてきた。」 彼女は、良い経験をしました。しかし、これは彼女独自のものです。当然のことですが、カルテを読んだからと言って、誰でも同じ経験をするとは限らないのです。
本当に辛い時、苦しい時に、喜んだり、感謝したり出来るものではありません。多分、パウロも、苦難の中で、神に対し怒りや不満をぶっつけたのではないでしょうか。しかし、そうしているうちに、次第に、神がいつもそばにいて支えてくださっていることが確信となっていったのだと思います。そして、その時、パウロは、自分が生きていることが良しとされていることに気づき、そこから湧き上がって来る、自分は確かに救われているという深い喜びと感謝を感じたのだろうと思います。今日の聖句には、このような背景があることを理解しておきたいと思います。
(協力司祭 広沢敏明)
――今日の聖句――[ルカによる福音書 2:15−21]
今日は先ほど申しましたように「主イエス命名の日」という祝日ですが、元旦礼拝あるいは新年礼拝とも言われています。元旦礼拝と呼ばれているのは、どちらかというとキリスト教の暦によるというよりも、他の人が元旦に初詣に神社へいくのだから、クリスチャンも元旦には教会で礼拝をしましょう、という意見から出たような気がしないでもないです。とにかく今日は赤ちゃんイエスさまが名付けられた日でもあり、元旦でもありますので、ユダヤ教に伝わる赤ちゃんの話を通して今年のわたしたちのクリスチャンとしての始めの歩みを共に踏み出したいと思います。
ユダヤ教には次のような話があります。赤ちゃんが世に生まれる前に神さまがその赤ちゃんのところに訪ねて行くのだそうです。そして赤ちゃんが人生を生きていくために必要な知識と知恵を全部授けてあげるんだそうです。それから赤ちゃんのくちびるをそっと押しながら「シ〜」と言われるんだそうです。神さまはそのように赤ちゃんと「秘密を心に留めておきましょう」と約束をします。それで人間はだれでも鼻の下、唇の上には縦に走っているくぼみ、人中穴があるわけです。皆さんも人中穴が付いていますよね。要するに神さまの指紋が残っているわけです。神さまと皆さんが赤ちゃんの時秘密の約束をした跡です。もちろんこの話が本当か本当ではないかはわかりませんがこの話を通して考えられることがあります。
救いの確信というのは、赤ちゃんの時、神さまと交わした秘密の約束をおぼえて神さまからの知恵を思い出すことです。わたしたちそれぞれの人生の歩みにおいては様々な苦しみ、痛み、挫折があります。また楽しい時、嬉しい時もあります。そのすべての営みをどのように生きていけばいいかについて神さまはわたしたちに語っておられます。この世がわたしたちを押さえつけようとしても振り回されないで、めげないでいましょう。わたしたちに与えてくださった神さまからの秘密をおぼえてください。鏡を見るたびに自分の人中穴をみながら神さまの子どもであることを再確認してみましょう。最もそれらを再確認できる時間というのは、教会で行われる礼拝の中でみ言葉を聞き従う時間です。またサクラメントを通して恵みをいただく時間です。それらの時間は神さまとの交わした秘密を確認する時間でもあります。わたしたちの中に命が宿られる瞬間です。人生の目的がはっきりする時間です。また礼拝を通して自分だけがその秘密を確認するのではなく、教会における交わりを通しても互いの顔をみながら心を見ながら、神さまと交わした相手の秘密を分かち合うことができるのではないかと思います。
今日の話は抽象的で無理やりなたとえ話を皆さんに申し上げましたが、今年一年教会における礼拝と交わりを通して神さまと交わした秘密、人生を歩んで行く力となる、知恵となる、知識となるものを確認して、また互いに確認しあっていくことがわたしたちに求められているのではないかと思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 1:1−18]
福音記者ヨハネは、「神の言(ことば)、神の命そのものであるイエス・キリストが、私たちの生きるこの世界に人として来られた。これは世の光であって、恵みと真理に満ちている。」、とクリスマスのメッセージを語ります。神が私たちの生きるこの世界へ来られた、というヨハネによって伝えられるこの明確なクリスマスのメッセージは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(14節)という表現によって語られます。「わたしたちの間に宿られた」というこの表現は、聖書の原文のギリシア語で、「私たちの生活の現場にテントを張った」と記されています。神の言(ことば)、神の命そのものであるイエス・キリス トは、私たちの生きるこの世界、この現実の生活のまっただ中に、テントを張って、私たちと共に生き始められた。これがヨハネの表現するクリスマスの意味で す。
神が私たちのところに来て、同じ生活の中に生きておられる、ということは、私たちのどのような状況も思いも、必ず神は知っておられるということです。これは神と私たちが完全な信頼のうちにあることです。完全な信頼のうちにあるので、私たちは神にどのようなことでも打ち明け、また願い求め、あるいはどのような悲しみをも伝え、また喜びを共に分かち合うのです。神は私たちのこのような神への信頼を求めておられます。神の言(ことば)、神の命そのものであるイエス・キリストがこの私たちの世界に生まれた、というクリスマスの事実は、神と私たちの完全な信頼が現実のものとなった、ということなのです。
(司祭 高橋 顕)
イエスさまが生まれた時のローマの皇帝は、本日聖書に書いてある通りアウグストゥスでした。彼は本来「オクタビアヌス」という将軍でしたが、武力で政権を握り皇帝になってから「貴き者」という意味の「アウグストゥス」と自ら自分の名前を付けました。これは元々神の名前であった8月(August)と同じ語源であります。すなわち、彼は神となりました。そして彼は神の地位を確認するため全領土の住民に登録をするように勅令を出しました。登録ということは、ローマ帝国に属している全ての人々がアウグストゥスの所有であることを法的に確認する手続きでした。
イエスさまがお生まれになった時は、人間が神になろうとしていた時であり、ローマの軍隊の支配による、力による平和の時代でした。この時、イエスさまはベツレヘムの馬小屋でお生まれになりました。宿屋がいっぱいになりベツレヘムの人々の無関心によってヨセフとマリアは宿屋に泊れなかったためにイエスさまが馬小屋で生まれたと言われています。しかしここには大切なメッセージが含まれています。当時の人であれば誰もが理解できる話ですが今日においては理解しがたい話かもしれません。その背景について申しますと、当時ベツレヘムにはローマ軍隊の軍馬を飼育する大きな馬小屋がありました。エルサレムに駐屯するローマ兵士のための馬の飼育場がベツレヘムにありました。馬はユダヤ社会において珍しい動物でした。ロバや牛はたくさんいましたが馬はローマ軍隊が使っていた戦闘用の特別な動物でした。イエスさまはローマ軍隊の自慢であった軍馬の餌としてこの世に来られました。ここにクリスマスの核心たるメッセージがあります。ローマ帝国が叫んでいた平和は馬のひづめで人々を押さえつける、力に基づいた武力の平和でした。しかし赤ちゃんイエスを通して聖書が証する平和は、力と武力のしるしである軍馬の餌となり、それを食べる馬を本質的に変えてしまう平和を意味しています。これこそが聖書が述べている平和であります。
わたしたちは今「平和」の只中に住んでいると勘違いしているかもしれません。しかし世界各地、日本社会、わたしたちの周りにはあらゆる暴力によって苦しめられている人々が多くいます。それらの原因というのは何でしょうか。それは自分の利益のため、自分は損したくないという欲望と頑固な心から起きることではないかと思います。イエス・キリストは生まれた時から平和のためにローマ帝国の餌としてご自分をささげられました。また十字架の上でご自分をささげられわたしたちの罪をあがない平和を宣べ伝えました。わたしたちはイエスさまがなさった業をそのまままねすることはできません。わたしたちが今できることは、全世界、日本社会、周りの平和のため少しでも自分を餌としてささげることだと思います。「餌としてささげる」というのは大げさかもしれませんが、少し「損」をすることです。自分の欲望、頑固な思いを少し削って、隣人を理解し、隣人を配慮し、隣人を愛することによってわたしたちは平和に近づくことができるのではないかと思います。平和はタダでは与えられません。2千年前イエスさまはベツレヘムの馬小屋で静かに生まれたわけではありません。母マリアの陣痛による誕生でした。またベツレヘムの周りには権力者の暴力によって殺害されたお母さんたちの叫びがありました。平和は簡単に手に入れられるものではありません。自己犠牲を伴うものであります。「餌としてささげる」、「自己犠牲」というのは大げさかもしれませんが、まず少し「損」することから始まります。
後1週間後2010年をわたしたちは迎えます。今日わたしたちはイエスさまに従ってこの世の馬小屋に近づいて軍馬の餌になりましょう。そして明日の主役となる子どもたちに平和という素晴らしい賜物を残したいと思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――[ルカによる福音書 1:39−55]
「マリアの賛歌」として有名な今日の福音書の内容は、天使の予告を受けたマリアがエリサベトを訪ね二人が一緒に神さまを賛美する内容です。この箇所の特徴を三つあげてみると、
一番目、「洗礼者ヨハネとイエスさまの誕生の予告」と「洗礼者ヨハネとイエスさまの誕生の物語」の間におかれ、二つの話をつなげながらイエスさまをより目立たせていることです。
二番目としては、今日の箇所の前後は洗礼者ヨハネとイエスさまを対比することであるが、今日の箇所は洗礼者ヨハネの母とイエスさまの母、すなわちエリサベトとマリアを対比したことです。
三番目としては、エリサベトはマリアを中心として神さまを賛美しますが、マリアは自分を中心として神さまを賛美するということです。それは、イエスさまは洗礼者ヨハネと比べられないほど優れた方であることをのべるためでした。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――[ルカによる福音書 3:7−18]
今日の福音書は三つの部類の人々が来て洗礼者ヨハネに尋ねています。一番目は、一般の群衆です。二番目は、徴税人です。三番目は、兵士です。力と権力を信じていた徴税人と兵士が一般の群衆の中に入って洗礼者ヨハネに尋ねます。そして三つの質問の内容は同じです。「では、わたしたちはどうすればよいのですか」。すなわち「わたしたちはどのように生きて行けばよいのですか」でしょう。質問に対して洗礼者ヨハネはそれぞれの立場にあわせて答えます。一般の群衆には「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」、徴税人には「規定以上のものは取り立てるな」。兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」この三つの部類の人々に対する洗礼者ヨハネの答えを聞くと、わたしたちは洗礼者ヨハネがどのように人々に教えていたかがわかります。それは「決まっている通り、他の人々の物を奪わないで、自分が持っている物、余った物を分かち合って生きることが大切である」ということでしょう。
洗礼者ヨハネとイエスさまの言葉を比べてみると大きな差がわかります。それは自分に余った物を分かち合うことと自分に必要なものさえも分かち合うことの差だと思います。洗礼者ヨハネはイエスさまを待ちながら伝統的な教えである「余った物を分かち合うこと」を教えました。なぜならばまだ何の準備もされてない、自分のものだけを確保しようとする人々にイエスさまの教えである「自分に必要とする物であっても他人と分かち合うこと」を教えることはできなかったからです。そのため洗礼者ヨハネはイエス様より先に送られてきて人々イエスさまの教えを受け入れられるような準備をさせたのです。そのためイエスさまの教えよりはレベルが弱い「余った物を分かち合うこと」を教えたのだと思います。
クリスマスを待ち望んでいるわたしたちも「では、わたしたちはどうすればよいのですか」。と自ら尋ねなければなりません。それに対して今日の福音書の中で洗礼者ヨハネは答えました。「余った物を分かち合うこと」だと。今日の福音書の内容ではないですがイエスさまは「自分に必要とする物でも分かち合うこと」だと命じられています。またわたしたちの思いの中には「何も分かち合わないこと」もあるかもしれません。わたしたちにはこの三つの選択肢があります。この選択肢をめぐってわたしたちは一生悩むと思います。わたしたち個人だけではなく教会もやはり悩む場合があると思います。今日はあえて偉そうな結論は出したくありません。これからの課題として皆さんと一緒に考えて行きたいと思います。「何も分かち合わないこと」か。「余った物を分かち合うこと」か。「自分に必要とする物までも分かち合うこと」か。残り少ない降臨節わたしたち真剣に考えてみたいと思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――
<皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、・・・アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で 叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」>[ルカによる福音書 3:1−2]
今日の聖句に、「神の言葉がザカリアの子ヨハネに降った」と書かれています。この「降った」という言葉は、ギリシャ語原文では「起こった」という言葉が使われています。この「起こった」という言葉を正確に訳すと、「神の言葉が出来事(事件)となった」となります。つまり、「神の言葉が降った」とは、ヨハネの口を通して、崇高な理念や思想、或いは人生の教訓が、ただ語られたということではなく、神の言葉が、現実の世の中で、出来事、事件となって動き始めたということです。
わたしたちは、この後の歴史を知っています。イエスがヨハネから洗礼を受け、宣教を開始されたこと、同時に、洗礼者ヨハネは捕えられ処刑されたこと、また、イエスも、それから約3年後、十字架にかけられて殺されたこと、そして、このイエスの教えが世界中に広まっていったことを知っています。このように、ヨハネの口から出た言葉は、先ずユダヤの人々の上から下まで、すべての人々を巻き込んで動かし始め、人類の歴史上類例のない大きな出来事を引き起こしていくことになるのです。
この出来事の始まり、つまり洗礼者ヨハネに神の言葉が降った所は、「荒れ野」であったと書かれています。「荒れ野」とはどういう場所でしょうか。皆さんは、写真集などで、死海周辺の草木の殆どない、砂地と岩ばかりが連なる荒涼たる山岳地帯をご覧になったことがおありになると思います。そこが「ユダの荒れ野」といわれるところです。
預言者イザヤは、「これからやって来られる救い主のために、谷を埋め、山を削り、曲がった道を真っ直ぐにし、でこぼこ道を平らにせよ」、と叫んだのです。
言うまでもなく、イザヤが「荒れ野」と言ったのは、人々の心の問題、人々が住んでいる社会の問題でした。イザヤは、救い主が来られる、そのとき、お前たちの心は荒れ野のままであってはならず、お前たちの住む社会は荒れ野のままであることは許されなくなる、と叫んだのです。
わたしたちの心には、誰の心の中にも荒れ野のような部分があります。憎しみ、恨み、ねたみ、そしり、或いは、自己中心、差別、限りない欲望、そのような部分が、荒れ野の石地や岩山のように広がっています。社会も同じです。貧困、差別、戦争、抑圧など、それらが多くの人々をいわれのない苦しみと悲しみに追い込んでいます。
このような荒れ野は、救い主が来られる時、荒れ野は荒れ野のままであってはならないとイザヤは叫んだのです。
これからクリスマスまでの降臨節(アドベント)の期間、わたしたち一人ひとりが、 改めて自分の心の中を見つめ直す時にしたいと思います。
(協力司祭 広沢敏明)
――今日の聖句――[ルカによる福音書 21:25−31]
今日から教会暦では降臨節に入ります。教会によって「待臨節」、「待降節」と言いますが、聖公会では降臨節という言葉を使います。その意味について説明いたします。「降」というのは「くだること」、「おりること」を意味します。また「臨」というのは「高いところから見下ろすこと」、すなわち「身分の高い者が低い者のところへ出向くこと」を意味します。
降臨というのは、キリスト教ではない異教の世界で生まれた用語で、神自身が年一回神殿に下ってきて神を信じている人々の前にあらわれることを意味していました。また昔ヨーロッパの王様たちも王の即位、赴任、公式訪問の時この単語を使ったそうです。教会においても早くからイエス・キリストが人間の間に現れたことを表現するためこの用語を使ってきました。「待臨節」、「待降節」、「降臨節」はラテン語「Adventus」の翻訳でキリストの誕生と世界の終末に来るキリストの来臨を待つ、また待つ時期であることを意味しています。わたしたちの救い主であるイエス・キリストが来られること、公的に現れることを意味しています。
このように降臨は、キリストの誕生と世の終末に来臨することを意味していますので、古くからキリスト教はこの時期には「喜びの中で目を覚まして待つこと」、「希望」、「悔い改め」を強調してきました。今日の福音書はローマ帝国とユダヤ教によって迫害されていた初代教会のクリスチャンたちに「イエス・キリストが再臨する時まで、希望を失わないで喜びの中で目を覚まして待つこと」を強調しています。キリストの誕生と世界の終末に来るキリストの来臨をどのように待ち望めばいいかを思い巡らす降臨節を過ごしたいと思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 18:31−37]
本日の主日は、教会の一年をめぐる教会暦で最後の主日であり、「聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復」という主日の名がつけられています。今日のこの 主日に、私たちは収穫感謝礼拝をお捧げいたします。神様によって、これまでに多くの様々なお恵みを与えられ、今もまさに神様のお恵みに生かされている、と いうことを感謝して、収穫感謝礼拝をお捧げいたします。
今日の主日はまた、神様との本来の関係に私達を回復して下さった「王であるイエス・キリスト」をおぼえる主日でもあります。聖書を読む時、私たちは王としてのイエス・キリストを知ります。王としてイエスは誕生され、王としてイエスはエルサレムの人々に迎えられ、王としてイエスは十字架の上で死にました。本 日の福音書では、総督ピラトがユダヤ人たちに求められ、捕えられたイエスに尋問する出来事が記されています。それはイエスが「ユダヤ人の王」であると自称 している証拠を確認するためでした。もしイエスが「ユダヤ人の王である」と自ら言うのであれば、反逆罪ですぐに処刑することができました。イエスをピラト のもとへ送った人々は、まさにその処刑を願っていたのでした。しかしイエスは、この世で人と国を支配する権力者としての王ではなく自分は「真理について証 しをする」王であることを明言します。真理とは、すべての人に「確かさ」を与えるものです。イエスは、この世が与え得ない「確かさ」を私たちに与えて下さる真の王なのです。
私たちは、「真理について証しをする」「確かさを与えて下さる」この真の王によって、本来のあるべき姿に回復され、そこに生かされていくのです。私たち は、「王であるイエス・キリスト」への感謝をもってこの一年をしめくくり、来主日から始まる教会暦の新しい年の始めに、「王であるイエス・キリスト」のご 降誕を、清い心でお迎えすることが、求められています。
(司祭 高橋 顕)
――今日の聖句――[マルコによる福音書 13:14−23]
今日の福音書の箇所も終末に関する恐ろしい内容であります。さらに理解しにくい箇所でもあります。今日の旧約聖書および福音書の箇所は黙示文学とも言われるところです。そもそも黙示文学は紀元前2世紀から1世紀の間にイスラエルで流行っていました。この時代は先ほど申し上げましたようにイスラエル民族がシリア政権の迫害とローマ帝国の支配よって苦しめられた時期でした。現実の中では何の希望も持ってなかった人びとに、宗教的希望を与えるために黙示文学者たちは次のような歴史観を考えました。この世は一つではなく、「この世」と「来る世」であると。すなわち「歴史」と「終末」として分けて考えました。人類の祖先であるアダムが罪を犯してから、サタンとあらゆる悪魔がこの世を支配しているため、この世には罪と悪が満ちている。それゆえに歴史はますます終末に向かっていく。終末が近づくと罪悪はきわめて蔓延するということです。そのつらい時代は終わり裁きの後、神様の正義の世界が来る、という希望が語られています。それに影響を受けた今日の本文にも詳しく内容が記されています。
マルコによる福音書が書かれた時期の初代教会もその黙示文学の影響を受けイエス来臨の信仰を持っていました。なぜかというと、マルコによる福音書が書かれたA.D.70年頃に、ローマ軍はエルサレムでのユダヤ人反乱を鎮圧し、ローマ軍は城壁を破壊し神殿は崩壊しました。ユダヤ人の独立戦争は敗北に終わりました。その敗北によって1948年イスラエルの建国までユダヤ人は国を持たない民族として苦難の日々を過ごすことになりました。当時初代教会のユダヤ人キリスト者はイエス様が速やかに来臨し救ってくださることを望んでいました。マルコにはこの思いが強く働いたに違いないと思います。結局、マルコは、終末に気をとられて、今がおろそかにされてはならないことを述べています。わたしたちはいつ神様に召されるか、「その時」がいつ訪れてくるかを知ることはできません。わたしたちは「その時」を知らないまま生きていますが、おそらく「その時」を知らないまま生きて行くことが正解かもしれません。ただし「その時」がいつになるかは知らないが、「その時」のために準備しながら生きて行くことはできます。そのためわたしたちに与えられる毎日が「その時」を準備する時間であると思います。
クリスチャンというのは、「その時」を準備する人です。神様がわたしたちに与えてくださる「その時」のため毎日を忠実に生きて行くことは大切であると思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――[マタイによる福音書 5:1−12]
逝去者記念礼拝をささげているわたしたちに今日与えられている福音書の箇所は先ほど読ませていただいたマタイによる福音書の5章いわゆる山上の説教の中の「幸せの宣言」の部分です。
5章4節には「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と記されています。「悲しむ人々は幸いである?」決してそうではない場合が多いでしょう。悲しみ、また悲しみから来る苦しみを好む人はあまりいないでしょう。また悲しみと苦しみを幸せだと思う人もあまりいないでしょう。悲しみと苦しみによって人生が破壊され自ら死を選ぶ人もいます。また悲しみと苦しみに耐えられなく神様を疑い信仰を捨てる人もいます。今日ここに集まっているわたしたちも悲しんでいます。この1年間に愛する家族、友だち、信仰の仲間を主のみもとに見送ったからです。主のみもとに召された一人ひとりを思い出してみます。彼らが主のみもとで安らかに憩われていることを信じてわたしたちは喜んでいますが、考えてみると悲しいのが当たり前です。天国で彼らと再会するまで会えない別れをしたからです。すぐそばに彼らがいないからです。このようなわたしたちにイエス様は言われました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」
この箇所を始めイエス様のみ言葉を集めたマタイが活動していた当時は、ローマ帝国によってエルサレムが破壊されキリスト教を信じることも許されませんでした。今わたしたちは信教の自由があり洗礼・堅信を受けイエス様を自分の救い主として迎え入れることはそんなに難しいことではないかもしれません。しかし当時はイエス様を信じることというのは、命をかけることでした。死を覚悟することでした。信仰を守るためローマ帝国によって迫害を受け殉教した人が多くいました。仲間たちが信仰のため迫害され殉教される場面を目撃したマタイは、親しい知人の死に悲しみながら周りの信仰の仲間のためにイエス様から聞いた言葉を書き記します。それが「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」です。新約聖書は元々ギリシャ語で書いてあるため日本語に訳すると本来の意味が伝わらない場合があります。そのため正しく日本語で翻訳したいですが、まずここで書いてある「悲しみ」は喪失の悲しみ、すなわち死別など大切な者が失われ泣いている時使う言葉です。次に「慰められる」という動詞はギリシャ語の独特な表現で、ここで使われている場合主語は「神様」になります。行為者が神様であることを隠す動詞です。すなわち「神様によって慰められる」という意味が正しい表現です。また「慰められる」という動詞は、ギリシャ語の語源から分析すると「わき・そば」と「呼ぶ・声をかける」という二つの言葉が合わさってできた言葉です。すなわち「そばで声をかける」という意味です。したがって5章4節を正しく日本語で翻訳すると「幸いだ、大切な人を失われ悲しみながら泣いている人たちは、神様が彼らのそばに立って声をかけるでしょう」になります。
苦しんでいる人々の、悲しんでいる人々の近くに神様はおられ「あなたは慰められます。あなたは今の悲しみを乗り越えられる力が得られます。あなたは新たなる道を歩んでいく勇気が与えられます。あなたは新たに息をして新たなる人生を見つけることができます。」と声をかけておられます。また苦しんでいる人々の、悲しんでいる人々の涙をぬぐいとって、力がない時肩を貸してくださる心強い友だちでもあります。悲しんでいるわたしたちは、神様がそばでかけてくださる声に耳を傾けましょう。真心からささげる礼拝と祈りをもって耳を傾けると、神様の声はわたしたちに届けられると思います。その神様の声はわたしたちに慰めを与えてくださると信じます。また悲しみは喜びに変えられ人生における大きな力になっていくと思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――
<その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「・・・行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」>[ルカによる福音書 10:1、3]
今日は、バザーに目を奪われがちですが、忘れてならないのは、今日は、この練馬聖ガブリエル教会の創立記念日でもあるということです。この教会は、1935年11月3日に創立され、今日は74年目に当たります。教会は何のために存在するか、一言で言えば、「伝道」のためです。これはイエス・キリストの命令だからです。今日は、この教会の原点を改めて心に刻む日であります。
今日の聖句冒頭このように書かれています。「主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」
「七十二人」は、世界のすべての国への伝道を表していると考えられています。ルカは、全世界への伝道がここに始まった、と言おうとしているのです。この最初の小さな一歩が次第に広がり、約2000年の歳月を経て、この練馬に地にまで伝えられたのです。
続けて、「ご自分が行くつもりのすべての町や村に遣わされた」とあります。イエスに遣わされた弟子たちのことを、「使徒」と呼びます。イエスが特別に選ばれたペテロやヨハネなど「十二使徒」だけが「使徒」であると教えられてきました。しかし、少し見方を広げれば、弟子たちはすべて使徒であり、今、ここにいるわたしたちも、「使徒」と言ってもおかしくないように思います。
練馬聖ガブリエル教会は、4年前、創立70周年の時に、「これからの教会のビジョン」を作成しましたが、「伝道」について、このように書かれています。
○ 開かれた教会
このビジョンに、三つの重要な要素があります。
(1)地域社会に開かれた教会。
(2)第二の輪(わたしたちの直ぐ周りにあるグループや人々)を大切に。
(3)背中でする伝道(「背中の伝道」)。
三番目の「背中の伝道」は分かり難いですが、朝日新聞の夕刊に『おやじの背中』というコラムがあります。著名人が、親父の言葉からよりも、「親父の背中」、つまり「親父の生き方」からいかに多くのことを学んだかといいう経験を書いています。丁度それと同じように、わたしたちは、自分の周りにいる人々に、そう声高に叫ばないけれども、自分の生き方を通して、イエス・キリストの愛を伝えて行こうではないかということです。
「背中の伝道」とは、いかにも後ろ向きの伝道のように聞こえますが、そんなに安易な道ではないはずです。私には、むしろ、最も厳しい道であるように思えてなりません。そこでは、日々、自分のありのままの姿が見られ、自分の生き方が問われているわけですから、一時的な取り繕いやパーフォーマンスでは済まないからです。今日のバザーが神様に祝福されたものになりますように、お互いに頑張りたいと思います。
(協力司祭 広沢敏明)
|
|