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――今日の聖句――
<だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。>[マタイによる福音書 25:13]
今日の福音書の中で登場した「ともし火」とともに準備しなければならない「油」は何でしょうか。これに対して人々の答えはさまざまだと思います。ある人はイエス様のお話を聞いてそれに従うこと、あるいは愛の実践、あるいは善を施すこと、祈り、行動する信仰などいろいろな答えが出ます。しかしわたしは今日の説教を準備しながら、この油というのは「一番常識的で基本的な何らかの実践」を意味するのではないかと思います。何故ならばともし火とともに油を準備するということは、あまりにも当たり前で常識的なことだからです。
また私たちは重要なことをするときには、特別な方法や秘法が必要であると思うかもしれません。ダイエットの例をあげてみます。ダイエットには様々な方法があります。運動の方法も様々、ダイエットにいい食べ物もいっぱい出回っています。しかしダイエットの基本は体内に摂取したカロリーを生活の中で多く消費することです。そのためにうまずたゆまずする運動と食生活の調節など生活習慣の改善が一番常識的なことであり一番良い方法です。
しかし多くの人々は一番常識的で基本的なことは無視したまま、特效薬と近道を探しています。もちろんそういうものなどが一時的な效果を出すかもしれませんが、持続的な效果を得るためには運動と食生活など一番基本的で常識的なことの実践が何よりです。しかし人々はこのような事実を忘れ、まるで基本的土台を無視してもいいと思い、何か特別な薬のような秘法があるだろうということばかり考え、基本的で常識的なことの価値を無視するのが私たちの姿ではないでしょうか。そしてこのような例は信仰生活においても同じです。
終末と審判、すなわち、神の国に入るために、救われるために、私たちはよく祈りと善の施し、教会と神様に対する献身、慈善と犠牲など特別な何かを探しているのではないでしょうか。また覚えておかなければならないことは、立派な事というのは常識的で基本的なことから始めて成り立つという事実、そして立派で特別な事は常識的なことの実践の上、意味を持つというあまりにも平凡な事実です。私たちがその事実を忘れる時私たちも彼らのように気が抜けた行動をまったく同じく繰り返す可能性があるということです。
私たちが神の国のためにすべきことは何か特別な事や近道を探して出るのではなく自分の位置でしなければならない一番基本的で常識的なことが何であるかを考えることです。
何故ならば聖職として、主婦として、会社員として、学生として各自に任せられた一番基本的で常識的な任務とすべきことに充実すること、その以上の良い準備はこの世の中に存在することができないからです。愚かな5人のおとめが準備しなかったものは、そんなに難しいものではありませんでした。花婿が来ると起こされてから買いに行ったので花婿を迎えるのは遅くなったのですが、行こうと思えば買いにいける状況でした。わたしたちの油も今わたしたちそれぞれの立場、状況の中で、やろうと思えばできるものです。皆様それぞれの油、イエス様を迎えるときの油というのはどのようなものであるかが、これからのわたしたちに残された宿題だと思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――
<マリアは墓の外に立って泣いていた。・・・天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは 言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。・・・・イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ 語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。>[ヨハネによる福音書 20:11−17]
教会では、11月は「死者の月」、死者のために特別に祈る月とされています。今年は、1月以来、8名の方が天に召されました。今日は、特にご遺族の方々の心に思いを寄せ、「主の慰め」を祈りたいと思います。
先ず初めに、突然、思いもよらない形で愛する者を奪われ、未だにショックから立ち直れず、なかなか普通の生活に戻れない人のために祈りたいと思います。
「なぜ、あの子が、あの人が死ななければならなかったのか。人生は、余りにもひどい、自分が代わりに死ねばよかった、人生は空しい」、そのような思いがこみあげて来ます。
今日の聖句は、イエスを愛してやまなかったマグダラのマリアが、よみがえられた主イエスに出会う場面です。マリアは大きな慰めをえます。
<祈りましょう>
父なる神よ。愛する者を奪われて、ショックから立ち直れず、打ちひしがれている人々を、生きる拠り所であったものを失い、空虚な思いから逃れられずいる人々を、あなたの憐れみをもって顧みてください。どうか、混乱した感情の中にも、あなたの愛の力を知り、愛する者の死を受け入れることができるようにしてください。そして痛みは過ぎ去らなくても、あなたが共におられ、痛みを共に担ってくださることを知ることができるようにしてください。
次に、愛する者を奪われ、深い悔恨の思いを抱いている人々のために祈りたいと思います。「なぜもっと優しくしてあげられなかったか、なぜもっと長く傍にいてあげられなかったか、なぜもっと話を聞いてあげられなかったか」、痛恨の思いがこみあげてきます。
新約聖書の「ルカによる福音書24章」に、このような物語があります。
その日、二人の弟子が、逃れるようにエルサレムからエマオの村へ急いでいました。二人は、自分たちの師、イエスが捕らえられ、十字架につけられた時、何も出来ず、恐怖のために逃げまどっていたという、痛恨の思いを抱えていました。その時、一人の見知らぬ人が二人に近づき、エルサレムで起こった出来事とその意味を話します。そして、宿を共にし、共に食事をしたとき、二人は、その人がイエスであることが分かります。しかし、その瞬間、イエスの姿は見えなくなりました。 二人は語り合います。「道で話しておられるとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」二人は、大きな慰めをえます。
<祈りましょう。>
父なる神よ。自分の力と思いが足らず、何もできなかったと感じ、心を乱し、罪の意識に苦しんでいる人々に、平安を与え、自分を責める思いから解き放ってください。どうか、人間の弱さの中でも、あなたに愛され、受け入れられていることをお示しください。そして、今、痛恨の思いに浸っている人々の人生の歩みにおいて、その喜びと悲しみを、あなたが共にしてくださるように。
(協力司祭 広沢敏明)
――今日の聖句――
<心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。>[マタイによる福音書 22:34−46]
本日の福音書でイエスは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と語っています。ここでイエスは、第一、第二として、二つの掟を示されていますが、これは重要性の序列として並べているのではありません。この二つがあってこそ、最も重要な掟が表わされる、と教えているのです。隣人を愛することは神を愛することと同じであり、神を愛することとは隣人を愛する「愛」と同じ「愛」をもって愛することである、とイエスは示されるのです。
イエスを陥れようとするファリサイ派の人々は、文字や口伝で昔から伝えられている多数の掟を知識として知っており、それらを誰よりも守っていると自負していました。ですから彼ら自身、「これが最も重要な掟だ」と一つの掟を限定することはできませんでしたし、多くの掟を重要としているからこそ、彼らはその知識と、多くの掟を守る自らの姿勢を、自負していたのでした。その自分たちが、最も重要な掟を一つ定めることを避けていたにもかかわらず、イエスにそれを示させ、「では他の掟は重要ではないのか」と、責めようと考えていました。
イエスは、ファリサイ派の人々のその悪意を突き破って、神と隣人への「愛」の実践を教え示します。多くの掟を知り、それらの掟をどれほど守っているかを自負し、そうでない人々を非難し、罪人に定めている彼らに、イエスは、「愛」をもって行動することの最重要性を明示します。「愛」を掟に関する知識としてだけとらえていた人々に、イエスは、愛の実践こそがなければ、掟も知識もすべてが空しいことを示されるのです。
(司祭 高橋 顕)
――今日の聖句――
<あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。>[テサロニケの信徒への手紙一 1:3]
今日の福音書の中で、イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えました。このようなイエス様の答えは、世の中の権力と教会を区分してきた歴史の中で悪用されてきましたが、イエス様が伝えようとしたのは、二つを切り離して考えてはいけないと言うことです。同じように「皇帝のもの」というのは皇帝の所有という意味ではなく、あくまでも「管理権」を意味しています。「すべてのものが神様のもの」、「地上のすべてのものは神様に属されている」ということです。このような認識がはっきりするとき、その権限を正しく理解し使うことができます。また政治の自立性を認めるが、それはあくまでも神様に属されている相対的自立性であります。政治だけではなく、私たち身の回りのことを考えてみたいと思います。
「人間(自分)のため働くことと神様のために働くことは別々だ」とよく私たちは言っているかもしれません。ある人は日曜日に教会で働くことだけが神様のための働きだと言うかもしれません。日曜日だけ、教会にいる時だけ働くのが神様のためだと思うことは、「人間(自分)のため働くことと神様のために働くことは別の問題だ」というところから来る誤解だと思います。神様は日曜日だけの神様ではありません。教会だけの神様ではありません。日常生活における私たちのすべての営み、働きは神様の働きと全く無関係のことではありません。私たちの営み全体が神様の働き、すなわち宣教であると思います。
自分がおかれた社会的立場で、自分に任されたことに対して最善を尽くし、またイエス様の教えに従って愛を実践しながら、クリスチャンの生き様を見せながら、クリスチャンである自分を生き様でしめし、それを通してイエス様を証していきたいと思います。宣教の現場は「教会の中」、「教会から」だけではなく、「生活の中」からです。教会と社会、それぞれの場面で違う顔をする、二つに切り離すことはもうやめてクリスチャンにふさわしい同じ顔をしたいと思います。キリストの香りをただよわせることです。それが自然に教会の宣教につながり豊かな実を結ぶことになるでしょう。しかしこの中には「それは無理だよ」とおっしゃる方もおられると思いますが、その同じ顔は私たち自身の努力によって自然に形成するものではありません。養われて形成されるものです。できれば、いいえ必ず教会に来て礼拝を通して御体と御血にあずかり、聖書のみ言葉を聞くことによって養われていくことです。また互いの交わりを深めてより豊かになるものです。教会に来て「完結」するものでもありません。教会に来ることによって力づけられ、勇気付けられ、養われてそれぞれが宣教師として世の中に派遣されていくことが大切です。
聖餐式の最後に執事が「ハレルヤ、主と共に行きましょう」と唱えると会衆は「ハレルヤ、主のみ名によってアーメン」と答えます。この箇所を派遣唱といいます。これは集められた私たちが世の中に派遣されていくことを意味します。それぞれの生活において宣教のわざを実践するわたしたちとなりますように恵み豊かな神様に切実に祈りたいと思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――
<主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。>[イザヤ書 25:7−8]
マタイによる福音書では行動を強調しています(3:15、5:20、7:21.24-27、22:34-40)。マタイによる福音書には7:21 には「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と記されています。今日のたとえを通しても礼服を着た人々、すなわち神様のみ旨とイエス様の教えを実践する人々がイエス様に従う人であると教えています。わたしたちの生活はどうでしょうか。わたしたちにおいて日常的な生活と自分の生活ともにに充実していることは非常に大切な事です。しかし問題は、そのような事のため信仰的なこと事が無視され、神様が自分自身にとって「最善」ではない 「次善」になるというのです。自分だけを大切にすることによって神様をなおざりにすることや、信仰が自分の生活の優先順位において次善になってしまうと、信仰生活は形式的な次元にとどまり、神様のみ旨とはまったく違う道を歩んでしまうことです。
今日の福音書のたとえの中でイエス様がおっしゃる「礼服」は神様から与えられた宴に参加する人々が取り揃えなければならない生活の姿です。神様と神様の教えを最善だと思い、神様の呼ばれに対してこたえるわたしたちの態度をあらわすことだと思います。神様に呼ばれて嬉しくこたえる生活、神様から受けた愛に感謝してその愛を共同体の中で分かち合う事、お互いに励まして慰める暖かい心は神様の宴に参加する人々が取り揃えなければならない「礼服」という心構えだと思います。しかしわたしたちの姿を考えて見ましょう。神様そして神様の教えはわたしたちにとって何番目でしょうか。
わたしたちにとって、1番目はやりたいこと、2番目はやらなければならないこと、3番目は神様に会うことではないかと思います。やりたいことを全部終えて、やらなければならないことをすべて終えてから、その後余裕があれば神様に会ってあげます。神様はわたしたちにとって3番目ではないでしょうか。辛いことがあった時も神様は3番目です。自分の力で一度やってみて、それでもだめの場合は誰かに助けを求めます。それさえもできない場合、わたしたちは神様を呼び求めます。わたしたちにとって神様は3番目です。普段の生活においても神様は3番目です。自分自身に一番身近にあるものは自分自身、その次は自分の心をわかってくれる人、その次があの遠くいらっしゃる神様です。
しかし神様にとってわたしたちは1番目です。何があってもわたしたちが呼び求めるだけで助けてくださいます。わたしたちが苦しんでいる時、誰もわたしたちのそばにいない時には、わたしたちのそばに共におられわたしたちを慰めてくださいます。神様にとってわたしたちはいつも 1番目です。わたしたちにとっても神様を1番目だと思いましょう。いつもわたしたちのそばにおられ、わたしたちの手を握ってくださる神様を1番目にしたいと思います。神様にとって1番目であるわたしたちも、1番目として神様に仕えたいと思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――
<農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、 殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」>[マタイによる福音書 21:38−41]
3週連続して、主イエスが話された「ぶどう園を主題にした譬え」を取り上げました。先々週が、「ぶどう園の労働者の譬え」、先週が「ぶどう園の二人の息子の譬え」、今日が「ぶどう園と農夫の譬え」です。
「ぶどう園」が何を指しているか、大きく分けて二つの見方があります。一つは、伝統的な解釈で、「ぶどう園」は「イスラエルの国、又は民」を指しています。もう一つは、「神が創造されたこの地上の全世界を指しています。
先々週、イエスの譬えを読む場合に大切なことは、「あなたは、どこに立っているか」、ということだと言いましたが、もう一つの大切なことがあります。それは、「あなたは、イエスの問いに、どう答えるか」ということです。イエスの譬えは、どの譬えも、読む者に、「では、あなたは、どうするか」と鋭く迫ってきます。曖昧を許さない力を持っています。
「ぶどう園と農夫の譬え」のストーリーは、よくお分かりだと思います。
<あるぶどう園の主人が、農園のことをすべて農夫たちにまかせて旅に出た。収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために使用人を送った。ところが、農夫たちは、収穫をすべて自分たちのものにしようと、使用人たちを殺してしまった。主人は、再び使用人を送ったが、農夫たちは同じように散々な目に遭わせた。三度目に、主人は、「自分の息子なら大切に扱うだろうと、息子を送った。しかし農夫たちは、この息子も、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。>
今日の聖句は、この譬えを話された時のイエスの質問と、聴衆であるイスラエルの指導者たちの答えです。その後、この農夫が自分たちのことを指していることに気づいた指導者たちは、怒り狂い、イエスへの殺意を募らせていきます。
イエスは、何故このような譬えを持ち出されたのでしょうか。この譬えを聞く限り、誰でも、イスラエルの指導者たちと同じ答をするでしょう。答えは分かりきっているのです。問題は、この譬えと同じことが現実に起こっているということです。ユダヤの指導者たちは、神との関わりにおいて、また日々の生き方において、この譬えと同じことをやっているではないかということです。
さて、わたしたちは、イエスの問いに、どのように答えるでしょうか。胸を張って「農夫は死罪に値する」と答えられるでしょうか。多分、ただ沈黙し、深く頭を下げるしかないのではないかと思います。 それは、どなたも、心のどこかで、わたしたちもこの農夫と同じことをやっているという思いがあるからです。しかし、この思いは極めて大切です。後世「この息子の死は、イエス・キリストの十字架である」と理解されるようになりました。「自分が、農夫である」ことを真に自覚したとき、初めて、主イエスの十字架の愛が見えてくるのだと思います。
(協力司祭 広沢敏明)
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