Patrick-News20161016

聖パトリック教会1957年伝道開始
2016年10月16日発行 第286号


エリヤは来ていた

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

山上の変貌の出来事ののち、一同は山を下ります。その際、イエス様は、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と命じられます(9:6)。イエス様のこのような発言は、かつて「メシアの秘密」として、歴史的にイエス様にまでさかのぼる考えだと思われていました。しかし現在は、物語内で何かを示すための技法と考えるのが一般的です。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネという主だった弟子たちは、輝かしいイエス様の変貌の姿を目撃しましたが、理解できませんでした。理解できないだけならまだよいかもしれませんが、イエス様の輝く部分だけに注目してしまった場合、誤解を生み、イエス様の受難の意味がわかなくなってしまいます。そのような誤解を避けるために、イエス様は見たことを話してならないと禁止しているのでしょう。しかし、弟子たちはなぜ口にしてはいけないのかということも理解できなかったのかもしれません。「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(9:10)とあるからです。

弟子たちは、山に登る前に、「人の子の受難、そして復活」について告げられていました(8:31)。しかし、受難とは正反対のような輝くイエス様の姿を目撃しました。けれどもその光景は口外禁止でした。彼らは、それら一つひとつの事柄が、結びつけられないのでした。

彼らは、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と質問します。物語の中で、律法学者がこのような発言をしている場面はありません。おそらく、「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」というマラキ書の3章23~24節のことと思われます。7月の「パトリックニュース」で触れたとおりに、エリヤには様々な期待がありました。「恐るべき主の日」をイスラエルの国家的・集団的危機ととっても、世の終わりととっても、エリヤは決定的な役割を担う大切な存在である、そのような期待がありました。イエス様自身、エリヤと勘違いされてもいました(8:28)。これらの前提から弟子たちは、自分たちが体験した出来事を、未来に向けて理解するために、まずエリヤについて確認しようとしたのでしょう。

その質問に対して、イエス様は、「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする」(9:12a)とそのままマラキ書であろう言葉を受け入れます。しかし、単にそこにある聖書の言葉だけに注目し、そこからイスラエルの願望だけをかなえるような期待に対して、違う視点から問いかけます。「それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか」(9:12b)と語るからです。「人の子の苦しみ」という概念として、直接的引用となる旧約箇所はありません。しかしイザヤ書53章3節にある「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」という「苦難の僕」の内容が想起されます。
イエス様は、自分たちの願望を叶えてくれるエリヤに対する期待だけを、聖書から使信として受け止めてよいのか、逆に聖書にある苦難の僕という箇所から何か学ぶことはないかということを、弟子たちに問いかけているのです。だからこそ、次の言葉が続きます。「しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである」(9:13)。イエス様は、おそらく列王記19章10節のエリヤの言葉「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです」を念頭において語っていると思われます。

イエス様の時代からさらに約800年以上前、異教の神バアルに仕える預言者たちと戦うエリヤは、バアルに傾倒した北イスラエル王国の人々から、快く受け入れられませんでした。しかし、イエス様は、単にその過去のエリヤを想起しているだけではないと思います。「エリヤは来た」は完了形ですから、「来ていた」とも訳せます。イエス様の活動する直前にとらえられた洗礼者ヨハネのことをも、ここで語っていると思います。つまり、今の(イエス様の)時代にとってエリヤとは、バプテスマのヨハネのことであった。しかし、800年以上前と同じく、彼はイスラエルの宗教的・政治的指導者たちから受け入れられなかった。むしろ(イエス様の)現代のほうがよりひどいかもしれない。(イエス様の)現代のエリヤ、洗礼者ヨハネは、殺されてしまったからだ。そう語っているのだと思います。

イエス様は、聖書の引用であれ、過去の出来事の解釈であれ、目撃した出来事であれ、そこから自分の思いを超えた、神様の意志を感じ取ることの大切さについて語っています。聖書の言葉も、歴史も、実体験も、そこにある使信を、自分の都合に合わせて取捨選択してしまっては、神様が恵みとして示してくださる真理には到達しません。自分にとって全くわからない事柄、あるいは自分の思いとは矛盾する事柄、そこに何を見出すのか、その問いかけを忘れてはならないのです。それは現代でも大切なことに他なりません。