Patrick News20161120

聖パトリック教会1957年伝道開始
2016年11月20日発行 第287号


驚き・恐れから信頼へ

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

 「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」(9:14)とある通り、一同が山を下りて、他の弟子たちのところに来ると、議論の真っ最中でした。そのような中で、「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した」(9:15)とあります。群衆という言葉は、「オクロス」という名詞が用いられています。90年代、韓国の「民衆(ミンジュン)の神学」が日本で大きな話題となったとき、マルコ福音書では特別な意味で用いられている言葉だと、盛んに取り上げられました。しかし、今になって冷静に判断してみると、福音書の著者も、物語の構造自体も、この言葉に特別な意味は持たせていないと思います。特定の主語を持たない三人称単数の「彼ら・彼女」(新共同訳では「人々」と訳されています)と変わりません。ただ彼らは、イエス様を見ると、非常に驚きます。この「非常に驚く」という言葉は、言葉の用例数という意味では、少し特別です。

 この言葉は、普通に「驚く」あるいは「恐れる」という意味の動詞に「外へ」という方向性を意味する前置詞を付け、驚きの度合いを大きくした表現の動詞です。新約聖書での用例は、マルコ福音書にしかなく、それもここの他は、ゲツセマネでのイエス様への描写「イエスはひどく恐れてもだえ始め」(14:33)と、福音書の終わりの空虚の墓のお話で、墓を訪れた女性たちの描写、「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」(16:5)と彼女たちへの若者の言葉、「驚くことはない」にしかありません。新共同訳の「非常に驚いた」では、驚きの度合いが伝わらないと思われるのか、岩波訳の聖書では、「ひどく肝をつぶし」と訳されています。群衆は、他の驚きとは異なるほど、山から下りてきたイエス様を見て驚いたのでした。

 この動詞で問題となるのは、彼らがイエス様の何に対して、「非常に驚いた」のかということです。しかし、物語は、それについて書かれていません。それゆえ、想像するしかないのですが、最初に思いつくのは、イエス様の姿です。イエス様についてすぐ前では、山の上で「そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった」(9:2b~3)とありました。イエス様はまだ少し光っていた、あるいは表面の何らかの変化が少し残っていたのかもしれません。それを見て非常に驚いたのかも知れません。次は、イエス様が山から戻ってきた時間の長さです。イエス様が山にいた長さは書いてありませんので、もし旧約聖書で十戒の板をいただくモーセの時と同じように、山での滞在時間が長く、もうイエス様は降りてこないかもしれないと不安になっていたとしたら、降りてきて非常に驚いたということかも知れません。あるいは逆で、モーセと同じくらい長時間になると覚悟していたら、意外と早く降りてきて、非常に驚いたということかも知れません。物語は、「非常に驚いた」とあるだけで、特に明確に理解できる情報を与えてくれません。しかし、大切なことは、彼らの反応が、驚きだけではなかったということです。彼らは、イエス様の方へ「駆け寄って来て挨拶した」からです。

 この「挨拶する」という言葉は、文字通りには、抱擁することです。日本ではあまり見かける動作ではありませんが、人々が信頼と愛情を示すために、互いに抱き合うことです。一般的な挨拶の動作とも言えますが、基本的に本当に親しい人同士でしか行わない行為です。日本語では、このような動作がありませんので、「挨拶する」としか訳しようがないのですが、決して社交辞令、あるいは単なる礼儀としてそうしたわけではないと思います。見た目で「非常に驚いた」、けれどもイエス様を信頼し、イエス様に会えたことを喜び、イエス様と抱き合ったのでしょう。

 この群衆の応答は、山の上での弟子たちの反応と対照的と言えるかもしれません。彼らはイエス様の姿が変化するのを見て、「弟子たちは非常に恐れていたのである」(9:6)とある通り非常に恐れたからです。こちらの「恐れる」という動詞をさらに強調した形の言葉です。そして彼らは、仮小屋を建てるとイエス様について理解不能に陥ってしまします。そしてそれ以上に、イエス様を自分たちの価値観で誤解し始めていくのです。そこには、イエス様に対する期待が高まったという意味もあったのかもしれませんが、自分たちの価値判断で誤解し始めたということに他ならないと思います。

群衆が何を考えたかは書かれていません。そして彼らもイエス様を見て、非常に驚きました、あるいは非常に恐れました。しかし、信頼を寄せて挨拶をしました。そこから何が出てくるか、何が始まるかはまだ書かれていません。しかし、ただイエス様がいてくださることを喜ぶ、そこに人間の思いを超えた何かが始まる一歩が、そのように物語は記していると思います。