Patrick News20170219

聖パトリック教会1957年伝道開始
2017年2月19日発行 第290号

イエス様の受難

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

霊に取りつかれた子どもを癒したのち、「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」(9:30a)とあり、イエス様と弟子たちは、エルサレムへと向かう旅を続けます。少し前からイエス様と弟子たちの旅の行程を確認してみますと、イエス様たちは、8章37節でガ、リラヤ湖北の町ベトサイダから、北に30キロぐらい進んで、フィリポ・カイサリアに向かいます。そこはシリアの首都ダマスカスから南西へ60キロぐらいにあります。その付近で、ペトロの信仰告白、第一回目の受難予告、山上の変貌、そして山を下りてから霊に取りつかれた子どもの癒しの出来事がありました。そこからエルサレムへ向かうには、まっすぐ南下します。そのため、イエス様たちは、再びガリラヤを通ることとなったのです。


イエス様たちが通る際、物語の語り手は、「しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。」(9:30b)と記しています。ガリラヤは、イエス様の故郷ナザレがあり、活動を始めたカファルナウムもある地方です。イエス様の主な活動場所といってもよい地域です。しかし、語り手は、「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」と記しているのです。


新共同訳も以前の口語訳もここでは、「気づかれるのを」と訳していますが、そこで用いられている動詞は、知識的に「知る」という意味の言葉が用いられています。また、「好まれなかった」と訳していますが、そこでは「欲する、望む」という意味の動詞が用いられています。そのため、新改訳は、「イエスは、人に知られたくないと思われた」と原文に近い訳になっています。また岩波訳では、「イエスは誰にも知られることを望まなかった」と訳しています。微妙な違いですが、意味が異なります。イエス様はガリラヤを通りすぎることを、単に気づかれたくなかったからではないからです。それではなぜか、その理由は、そのあとに続く部分にあります。

語り手は、「それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである」(9:31)と述べる部分です。これは二回目の受難予告です。これからエルサレムに向かい、そこで十字架の死へと向かう、そして、復活する、そのことを明確にしたので、イエス様は、ガリラヤを通る際に、人々に知られることを望まれなかったのです。

なぜ受難を予告したら、知られたくないと望むのか、その理由も、続く弟子たちの反応が示しています。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(9:32 )からです。「言葉」は、論理や理論の意味ではなく、イエス様の話されたその発言そのものを意味する言葉です。「分からなかったが」は、「知る」という動詞に否定語の接頭語をつけた形で、「無知である、わからない」ことを意味します。平たく訳せば、「弟子たちは、イエス様が何を言っているのかわからなかった」のです。そして「怖くて」は、「恐れる」という意味の言葉ですが、マルコ福音書という物語の中では、そのあと、登場人物がどのような行動を選択するかの分岐点となる言葉です。弟子たちの選択した行動は、尋ねなかったということでした。わからなかったが、怖いので尋ねなかったということです。非常に人間味のある反応といえますが、思考を停止したまま、考えることをやめて、行動することにしたということです。

イエス様といつもともにいる弟子たちの反応がこのようであるならば、それほど接点の多くない、ガリラヤの人々はどう感じるであろうか。イエス様は、今またガリラヤを通っている、そしてエルサレムへと向かっている。その行動が、イエス様の意図とは、全く異なるように理解される可能性は十分にあります。だからこそ、イエス様は、知られることを望まなかったのだ、そう語り手は示しているのです。それは受難の意味を、しっかりと受け止めるためです。そして、それは、間接的には、今マルコという物語を読んでいる読者に対しても、もう一度イエス様の受難の意味を考えてみなさいと語り掛けていると思います。

福音書を読む人は、イエス様の受難と復活の出来事を当然知っていると思います。しかし、知っていたとしても、イエス様の十字架の死は、大変に恐ろしい出来事であり、また復活は、不思議な出来事であることに変わりはありません。そしてどちらも理解不能の事柄です。大切なのは、何が起きたかを知ることではなく、そこにある意味を自分のこととして受け入れることです。

もうすぐ大斎節に入ります。大斎節は、まさによく知っているイエス様の受難をもう一度、受け止めなおす時です。そして、神様がイエス様を通して、かつて、そして今も、あるいは、これからも、何を望んでおられるかを、自分のこととして受け入れることです。そこから恵みに満ちた歩みが始まります。今年も、よい大斎の時を過ごしたいと思います。