パトリックニュース最新号(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2018年4月15日発行 第303号

神の国と子ども
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

 

弟子たちは、離縁について、家の中で再度教えられましたが、その理解は限定的であったようです。つまり、なぜイエス様がそのような教えをされているのかという、根本を理解していなかったからです。次の物語がその様子を示しています。その描写も、いわゆる「弟子の無理解」というモチーフの一つです。ここでも弟子たちの間違いが、わたしたちに大切なことを示しているのです。


物語は、「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」(10:13)と続きます。「触れる」とは、体の接触を意味する言葉です。しかし、マルコ福音書の中では、イエスの起こす奇跡と結びついています。イエス様が病人に触れ、あるいは病人がイエス様に触れて、癒しの奇跡が起こっていました(1:41、3:10、5:27、5:28、5:30、5:31、6:56、7:33、8:22)。「子供たち」という言葉は、文字通り年齢的に「大人」に対して、「子ども」という意味です。年齢的に言えば、だいたい10歳以下です。「神の子イエス・キリスト」にある、法的あるいは民族的な子孫という意味のある「子」という言葉とは異なります。


弟子たちは、イエス様の病気や悪霊追放の出来事の目撃者です。連れて来られた子どもたちは、病気で苦しんでいるとは書かれていません。イエス様に触れていただくとは、祝福してもらうという意味もありますので、単純に祝福してもらおうとしただけかも知れません。いずれにしても、弟子たちは、人々がイエス様のところに「子どもたち」を連れて来る理由を、ある程度分かっていたはずです。またもっと大切なこととして、弟子たちは、9章37節で、誰が一番偉いか議論しあっていたときに、「子どもを受け入れることとはイエス様を受け入れること」と教えられていました。


しかし、弟子たちは、「この人々を叱った」のでした。新共同訳では、「この人々を」とありますが、原文では「彼ら」です。それが、「子どもたち」を運んできた大人たちなのか、それとも、「子どもたち」なのか、それともその両者なのかはっきりしません。しかし、いかようであっても、イエス様が何をなさりたいかをわかっていれば、それが間違いであることに気が付いたと思います。この「叱る」という動詞は、マルコ福音書では、主にイエス様が悪霊などに対して叱る時に用いられています(1:25、3:12、4:39、8:30、8:32:ここのみペトロ、8:33、9:25)。その動詞を、今弟子たちに用いていることを、少し拡大解釈しますと、この時点で弟子たちは、自分たちもイエス様と同じくらいに偉くなったと錯覚し始めている、と物語は暗示しているのかもしれません。さらに9章37節のイエス様の言葉と合わせて言うならば、弟子たちはすでに、イエス様を受け入れられなくなっているということを暗示しているのかもしれません。


しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた」(10:14)とある通りイエス様は、弟子たちのこの行為に怒ります。イエス様が、憤る描写は多くありません。ここの他では、少し表現が異なりますが、3章5節の安息日論争にある「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら」という箇所ぐらいにしかありません。逆に言えば、弟子たちの行為は、それぐらいイエス様にとっては、怒るべき事柄であったということが分かります。


ただし、なぜ怒ったのかという説明ではなく、イエス様の教えが続きます。イエス様は、弟子たちに語ります「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(10:14)。「神の国はこのような者たちのものである」、この表現は、マタイ福音書の山上の説教にある「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである」と似ています(マタイ5:3)。違う福音書を単純に並べて、何かを述べることはあまりよくありませんが、神の国(天の国)は、心の貧しい人、また子どもたちのものであるとイエス様は語っているのです。その両者に共通している事柄は、いろいろと考えられますが、何かを達成した存在ではないこと、あるいは未完成な状態であることなどが挙げられます。神の国は、何かを完成したから、あるいは達成しから獲得できるものではないということです。


イエス様はさらに続けて語ります。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10:15)。子どものように神の国を受け入れる。その表現は、単純であると同時に意味の深い言葉です。その理由は、すでに昨年の4月の292号に書きましたが、ここでは、心と行動がイエス様から少しずつ離れつつある弟子たちに対して、イエス様は、語り掛け続けている、そのことだけを覚えておきたいと思います。