牧師のひと言 2018

本日の使徒書から テサロニケの信徒への手紙3章9-13節(12月2日)

本日の使徒書は、「テサロニケの信徒への手紙一」です。この手紙は、現存するパウロの手紙の中で最古のものです。パウロは、49年の第二回伝道旅行の際に、シルワノとテモテと共に、ピリピからテサロニケにきて、教会を建てました。パウロは、この教会を再び訪れようとしたが実現しなかったため、テモテを遣わします。そしてテモテからの報告を聞いて、喜びと感謝、または迫害に負けないこと、そしてこの教会からの質問への回答として書いたのが、この手紙です。

本日の福音書から マルコによる福音書13章14-23節(11月18日)

本日のマルコ福音書13章14節に、「読者は悟れ」という表現があります。これは、福音書の実際の著者が、登場人物や語り手などを通してではなく、物語世界の枠を超えて、直接読者に語りかける手法です。特に強調したいことがある時などに用いられます。強調したいこと、それは、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」ことへの警告です。ただし、このことが歴史的に何であるかを特定するのは、困難であり、重要ではないかもしれません。そうではなく、それぞれの時代の読者が、自分の住む世界で何が起きているのか、しっかりと理解することの大切さ、そのことを述べていると思います。

本日の福音書から マルコによる福音書12章38-44節(11月11日)

本日の福音書に、「レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランス」という表記が出てきます。新共同訳の度量衡及び通貨を見ますと、一レプトンは128分の一デナリオンとあります。一デナリオンは、一日分の給料と言われますが、人によって異なります。あくまで参考例ですが、時給1000円で8時間労働、一日8000円とすると、一レプトンは、62.5円となります。レプトン銅貨二枚(一クァドランス)は、130円です。ちょうど自販機の缶飲料一本です。それが生活費のすべてであったが、それを神殿に捧げた女性の物語から、何を学ぶか、それがが大切です。

本日の福音書から マルコよる福音書10章46-52節(10月28日)

本日の福音書は、盲人バルティマイの物語です。彼は、エリ子の町を出ていこうとされるイエス様に向けて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びます。この「憐れんでください」が、聖餐式の中にある「キリエ・エレイソン・主よ、憐れみをお与えください」の基となる言葉です。彼がイエス様に向けた叫びが、今も礼拝の中に生きているのです。そしてもう一つ大切ななことは、イエス様が、「何をして欲しいのか」と彼にたずねて下さったことです。イエス様は、目が不自由なのだから、願いはそのことだろう、と勝手に推測しないのです。結果として彼の願いは、見えるようになることでしたが、尋ねるイエス様の姿に示されているのは、一人ひとりを大切にして下さる神様の愛です。

本日の旧約日課から イザヤ53章4-12節(10月21日)

本日の旧約日課は、イザヤ書の「主の僕」の歌と呼ばれる部分の一つです。イザヤ書には、「主の僕」の歌と呼ばれる部分が四つあります(42:1-4、49:1-6、50:4-9、52:13-53:12)が、この「主の僕」が誰を指すのかということは、正確には分かりません。キリスト教の立場では、イエス・キリストを連想しますが、ユダヤ教の伝統的理解では、集団としてのイスラエルと理解します。「苦難の僕」という表現で示される大切なことは、主なる神様が、力をふるって敵や悪を滅ぼし、その愛と恵みを示すのではなく、ご自身が選ばれた大切な「主の僕」の苦しみを通して、それを示そうとしているということです。「主の僕」の歌は、今もそのことを、時空を超えて示しているのです。

 

本日の使徒書から ヘブライ人への手紙3章1-6節 聖霊降臨後第21主日(10月14日)

本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」3章1節から6節では、イエス・キリストが、使者であり大祭司であり、さらにモーセと比較して、モーセのようにご自身を立てた主なる神様に対して忠実であったと述べられています。しかも、人間に対してあわれみ深く、主なる神様に対して忠実な大祭司であったのです。モーセも、地上の全ての人にまさって、その人となりが柔和で、かつ忠実な者であると述べられていますが(民数記一二章)、イエス様は、そのモーセと全く同様に、旧約の背景から考えても、主なる神様に忠実な方であったと述べられているのです。しかし、「ヘブライ人の手紙」は、イエス様が、そのモーセ以上に、大いなる栄光を受けるにふさわしい者とされたと述べています。イエス様が、全てのものを家として造られた神様、その「神の家」を治める方だからです。モーセは、「神の家」としてのイスラエル全体に対して、忠実な方でしたが、イエス様は、その「神の家」を治めることに忠実な方なのです。わたしたちは、イエス様と同じ信仰・忠実さを持つならば、わたしたちの集まりも「神の家」です。そして、わたしたちを愛を通して、守り治めてくださるのは、イエス様なのです。

 

本日の使徒書から ヘブル人への手紙2章9-18節 聖霊降臨後第20主日(10月7日)

本日から使徒書が、ヘブライ人への手紙となりました。ヘブライ人への手紙は、「まじわり」の巻頭言で、ここ数年掲載している文書です。
ヘブライ人への手紙は、伝統的には、パウロによって書かれた手紙の一つとみなされてきましたが、現在では、実際の著者が誰であるかは特定されていません。
この手紙については、「大祭司キリスト論」が有名ですが、冒頭では、天使(御使い)とイエス様が比較されています。天使は、旧約においても新約においても神様と人間との仲介的役割を持っています。しかし天使はあくまで仲介者に過ぎず、肉体をとり罪の清めの業を成就した、イエス様とは異なります。そのことがまず主張されています。天使は一時的ですが、御子イエス・キリストは不変なのです。

 

本日の旧約日課から 民数記11章4-6、10-16、24-29節  聖霊降臨後第19主日(9月30日)

本日の民数記11章4~6節に「雑多な他国人」と「イスラエルの人々」との嘆きの言葉があります。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」という非常に具体的な記述です。主なる神様を信じて約束の地に向かうのですが、途中の旅があまりにつらいので、エジプト時代を思い出した嘆きの言葉です。エジプトは、世界四大文明の一つですが、ナイル川によって作物が豊かな地域であることでもあります。この嘆きの言葉にある食べ物の一覧は、その一例です。今から3000年以上も前の話でありながら、これだけの種類の食べ物が豊富にあることはすごいのですが、主なる神様はそれ以上の恵みを与えてくださるのです。世界規模で、食糧問題が解決していない現代でも、聖書は大切なことを示していると思います。

 

本日の福音書から マルコによる福音書9章30-37節 聖霊降臨後第18主日(9月23日)

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」というイエス様の言葉は、普遍的な知識を語る格言のようにも聞こえますが、イエス様の受難を前提として考えなければ、意味を取り違えてしまいます。イエス様は、処世術を語ったのではないからです。
このイエス様の言葉は、弟子たちにとっては、示唆に富んだ言葉です。弟子たちは、イエス様の受難について頭で考えようとして、理解できずに思考停止に陥り、考えることをやめてしまったからです。そして、自分たちの願望のまま、イエス様に従っていこうとしたからです。そのような弟子たちに対して、このイエス様の言葉は、実際に行動することを通して、理解しなさいと促しています。「すべての人の後になり、すべての人に仕える者」になれば、イエス様の言葉の意味は、しっかりと理解できると語っているからです。なぜならば、受難の意味、そしてその意味が示す復活の命とは、それを欲しいと願い、誰かと一番を競い合い、奪い合って獲得する事柄ではないからです。

本日の福音書からマルコによる福音書8章27-38節  聖霊降臨後第17主日(9月16日)

本日の福音書から
本日の聖書日課は、8章38節で終わっていますが、お話としては、9章1節までが続きです。そこには、「また、イエスは言われた。『はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる』」とあります。新共同訳の「決して死なない」は少し訳しすぎかと思います。直訳では、「死を味わわない」です。「味わう」は、文字通り、「食べる、味見する」という意味で、日本語と同じく、精神的な意味で経験するという意味にもなります。口語訳では、「決して死を味わわない」となっていました。「死を味わわない」という表現は、いろいろな意味にとれるかも知れません。しかし、永遠の命の希望によって、失望に終わらないという意味があることは確かだと思います。

本日の福音書から マルコによる福音書7章31-37節 聖霊降臨後第16主日(9月9日)

本日の福音書に、「それからまた、イエスはティルス地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやってこられた」という「まとめの句」があります。この記述は、すこし方向感覚がおかしいところがあります。ティルスからガリラヤ湖のカファルナウムまでは直線距離で南東約60キロです。無理やり関東の地図にあてはめて、目的地のガリラヤ湖畔のカファルナウムを吉祥寺駅としますと、出発点のティルスはそこから北西に約60キロですから、埼玉県の寄居駅ぐらいになります。寄居駅(ティルス)を去り、約40キロ北北東に進み、桐生市の山中(シドン)を経て、約100キロ南南東に進んで、目黒区か世田谷区(デカポリス)あたりを通り抜け、北西に約10から20キロ進んで、吉祥寺駅(カファルナウム)に向かった」という動きになるからです。かなり大回りです。イエス様はこれらの場所に用事があったのでしょうか。おそらくあったのだと思います。なぜならば、ティルス、シドン、デカポリス地方は、ガリラヤの近隣ではありますが、異邦人の住む地域だからです。マルコ福音書は、詳細に述べていませんが、イエス様は、異邦人の住む地域でも活動された、そう語っているのだと思います。

本日の日課からエフェソの信徒への手紙6章10-20節

聖霊降臨後第15主日(2018年9月2日)
本日の使徒書にある「神の武具」の武具は、文字通りに訳せば「完全装備」です。当時の完全装備とは、兜、鎧、盾、剣または槍ということになるかと思います。完全装備で戦うとは、穏やかではありませんが、戦う相手は悪魔です。これぐらいで大丈夫だろう、そう思った時点て、悪魔にそそのかされているということでしょう

 

本日の使徒書から  エフェソの信徒への手紙5章21-33節聖霊降臨後第14主日(2018年8月26日)
 本日の使徒書は、古典的な男尊女卑の教えのようにも読めます。妻には、「従う」(22節)「敬う(恐れ敬う)」(31節)こと、夫には「愛する」ことを命じており(25節、33節)、命じられていることが同じではないからです。しかし、大切なことは、最初にある「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(5:21)が結論であるということです。ここにある「仕える」は、「(上の人に)服従する、隷属する」という意味があり、22節の言葉と同じです。使徒書は、そのことを単に人間的な思いや価値観で行うのではなく、キリストに対する畏れをもって、互いに行いなさいと命じているのです。聖書であっても、表現においては、書かれた時代の歴史的・文化的影響を受けています。しかし、本日の使徒書の結論は、現代の目標ともいえます。人間が互いに尊重しあい仕えあうことを命じているからです。

 

本日の日課から  ヨハネによる福音書6章53-59節 聖霊降臨後第13主日(2018年8月19日)

聖書のギリシア語を見ていると、日本語と発音が似てる単語に出会うことがあります。本日の使徒書に「酒に酔いしれる」という表現がありますが、「わたしは酒に酔いしれる」は「メテュスコー」です。これには類似する表現、「わたしは酒に酔う」(メテュオー)があります。これらの言葉には、同じ語源の名詞があり、「メテー」です。意味は、「酩酊」です。新約では、三つの用例があり(「ルカ21:34(深酒)、ローマ13:13(酩酊)、ガラテヤ5:21(泥酔)」)、ローマの信徒へ手紙では、「酩酊」と訳してあります。ただし複数対格へと語尾変化していますので、文中ではメタイスですが、面白い一致点です。


本日の日課から  ヨハネによる福音書6章37-51節 聖霊降臨後第12主日(2018年8月12日)
本日の福音書に「終わりの日」という言葉があります。この言葉は、この世の終末の日のことですが、すべての信仰者の救いの完成を意味します。その日に、信仰者の復活があり、永遠の命を歩み始めるからです。旧約には、永遠の命という直接的表現はありませんが、「終わりの日」という言葉はあります。ことに、イザヤ書に2章2-4節、ミカ書の4章1-3節は、まったく同じ文言であり、そこにあるのは、主なる神様の支配始まり、完全な平和の出現です。私たちがイエス様を通して、永遠の命を求めることは、この世界にまことの平和が訪れることを求めることと同じなのです。

 

本日の旧約から  出エジプト記16章2-4、9-15節 聖霊降臨後第11主日(2018年8月5日)
本日の旧約日課にあるパンは、「マナ」という言葉で有名です。この「マナ」はヘブライ語では、「マーン」です。それは、15節の「これは一体なんだろう?」(直訳:「何これ?」)のヘブライ語(マーン フー)に由来すると思われます。この言葉がギリシア語に訳された時に、出エジプト記では、その個所を「マーン」と表記しましたが、民数記では、「マンナ」と表記しました。新約聖書では、「マンナ」が用いられています。この「マンナ」が、日本語訳の「マナ」へとつながりますが、国によって、翻訳時の表記は異なります。某大手菓子メーカーに「マンナ」という名前の有名なビスケットがありますが、名前の由来は、この「マナ」からですが、ギリシア語表記を用いていたということになります。
表記以上に重要なことは、「マナ」が今でも正確に何だかわからない物質だということです。しかし、それが大切なのです。「マナ」を通して主なる神様が示したことは、「マナ」が大切なのは、何であるか知ることではなく、「何これ?」と人間の理解を超えて、人間を養って下さる神様の愛を知ることだからです。

本日の旧約から 列王記下2章1-15節 聖霊降臨後第10主日(2018年7月29日)
エリヤは、紀元前9世紀ごろに北イスラエルで活動した預言者です。エリヤが活動した時代、北イスラエル王国では、政治的には、王自ら不正を行い、宗教的には、カナンの地のバール宗教が広まっていました。そのためエリヤは、王の不正を批判し、バールの預言者たちと対決した預言者でした。
このエリヤは、「見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」と本日の個所にある通り、主なる神様が嵐の中で天に引き上げることによって、地上からいなくなります。つまり聖書はエリヤは死んだとは記していないのです。またマラキ書3章23節には、「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。これらからエリヤに対して、他の預言者とは異なる期待が生まれます。それは、終末の時、あるいはイスラエルが困った時に、エリヤが到来して救済するというものです。イエス様がエリヤに間違われたり、あるいはイエス様が十字架に掛った時、「エリヤを呼んでいる」と言われたりしたのはこのためです。

 

 

本日の福音書から   マルコによる福音書6章30-44節 聖霊降臨後第9主日(2018年7月22日)
本日の福音書の物語、五千人の食事の物語は、マルコの他、マタイ、ルカ、ヨハネと四つの福音書すべてに記されています。そのような物語は、多くはありません。そのことは、この物語が、イエス様の出来事を語るにあたって、重要であることを示していると思います。ただし、この物語は、教会の歴史の中で、イエス様が弟子たちの食べ物を増やして、5千人の群衆に分け与えた奇跡と解釈されることが多くありました。しかし、どの福音書も、食べ物が増えたと書いていません。食べ物が増えた奇跡という解釈は、この物語の解釈の正解ではないのです。それゆえ、この物語は、あなたはどう解釈するか、いつも読者にそう問いかけていると思います。
この物語をどう解釈するかということは、小さいことかもしれません。しかし、それは、イエス様について、あるいは教会について考えるにあたって、自分が何を期待して、何を大切としているか、そのことを明確にする鍵となります。自分の願いが解釈に現れるからです。わたしは、イエス様を中心にして、感謝をもって、今ある食糧をその場のすべての人と共に分けあった物語と考えます。

本日の福音書から マルコによる福音書6章7-13節 聖霊降臨後第8主日(2018年7月15日)

本日の個所に「下着は二枚着てはならない」というイエス様の言葉があります。この中の「下着」という部分は、非常に訳しにくい言葉です。寒さや極端な暑さを防ぐためのコートなどの服の下に、肌の上にそのまま触れるような形で着る衣服のことだからです。日本語でそれを何と呼ぶか、「下着」か「肌着」です。英語の聖書では、「シャツ」、あるいは「チュニック」と訳されています。服の形態から言えば、「チュニック」が元来の意味に一番近いのですが、現代の日本では、特定のイメージがありますので、聖書の訳としては使えません。 
肝心なのはこの箇所の意味ですが、それは、神様にすべてをゆだねて歩みなさいと言うことです。何かに対して十分に備えをすることはもちろん大切ですが、神様にゆだねる視点がないと、そこから慢心や傲慢が生まれる可能性があるからです。

 

本日の使徒書から  コリントの信徒への手紙二 12章2-10節   聖霊降臨後第7主日(7月8日)

本日の使徒書に「第三の天」という表現があります。旧約も新約も共に聖書は総体として「天」を示す場合、複数形を用います。しかし、第何番目の天という表現はここのみです。この表現は、紀元後のユダヤ教やイスラム教の七層の天という詳細な区分、あるいはダンテの神曲天国篇の一〇層の天とは異なります。しかし、「第三の天」そこが神様の領域であることを示しています。パウロは、自分がそこに上げられたことがあると認識しているのですが、その神的現象を誇りません。パウロが誇るのは、天上の素晴らしい体験ではなく、イエス様と同じ地上の弱さに他ならないからです。その弱さにこそ、すべての人を救う神様の力が発揮されるからです。