Patrick News20170115

聖パトリック教会1957年伝道開始
2017年1月15日発行 第289号

祈り続けること

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

弟子たちと群衆たちに対する嘆きの言葉の後、イエス様は「その子をわたしのところに連れて来なさい」とつげます(9:19)。連れて来るという言葉は、「運ぶ」という意味の、ごく一般的な表現の動詞が用いられています。ただしイエス様を信頼して癒してもらうために、病気の人、悪霊に取りつかれた人を連れてくる動作に用いられれます(1:32、2:3、7:32、8:22)。

人々は、その子どもをイエス様のところに連れてきますが、「霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた」のでした(9:20)。
イエス様は、「このようになったのは、いつごろからか」と子どもについて尋ねます。その人が病や悪霊によってだれだけ苦しんだのか、その苦しみを聞き、受け止めることが大切だからです。イエス様の奇跡は、一方的に力を用いて悪霊を追放したり、病気を治したりすることではないのです。
そのようなイエス様に対して、父親は、「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」と子どもについての詳細を報告します。しかし父親は、イエス様に対する信頼は失っているようでした。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と最後に述べるからです(9:22)。「もしおできになるなら」は、新共同訳では少し優しく訳してありますが、直訳すれば、「もしあなたができるならば」となります。「憐れんで」は、イエス様が、重い皮膚病に対してや、飼い主のいないような状況の群衆に対して深く憐れんだ時の描写と同じ動詞(1:41、6:34)です。それは「腸が千切れる」という意味で憐れむことを表現する言葉です。父親が「わたしどもを憐れんでお助けください」と「わたしども」と語るのは、父親は自分の子どもの苦しみを自分の苦しみと受け止めているからでしょう。そしてそうであるからこそ、子どもも自分も助けてほしいとイエス様に願っていたのです。少し父親の気持ちを強調して意訳するならば、「もしあなたにそれができるならば、この子の苦しみを自分の苦しみととらえて、私たちを助けてください」となるかもしれません。父親のこの少し批判的な反応は、仕方がないとも思えます。なぜなら、イエス様は不在でしたし、代わりの弟子たちは、悪霊追放の奇跡を行えずに、律法学者たちと議論ばかりしていたのですから。
そのような父親に対して、イエス様は、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(9:23)と答えます。原文には「と言うか」部分はありません。単に、「もしあなたができるならば」とあるだけです。それゆえここにはイエス様がどう思ったかは書いてありませんが、「信じる者には何でもできる」という言葉は、信頼を失ってしまった父親をもう一度励まし、また諭す意図が含まれていると思います。そして、そのイエス様の言葉に応えてその子の父親は、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫ぶのです(9:24)。自分の子どものため、誰かのために祈り願い続けることはできるからです。
その後、イエス様は、群衆が走り寄ってくるのを見ると汚れた霊に命じて、その子から追い出します。群衆が到着する前にイエス様が奇跡を行うのは、奇跡行為を人のいないところで行うという意図があるからです。霊は、その子を引付させたので、その子は死んだようになってしまいました。そのため多くの者が、「死んでしまった」と言います。父親の気持ちを考えていない無神経な発言です。単に傍観者的に自分たちが見た通りのことを、口にしたということでしょう。しかし、その子は「イエスが手を取って起こされると、立ち上がった」(9:27)のでした。
イエス様が家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねます(9:28)。ひそかにという表現に、弟子たちの無理解の深さが暗示されます。堂々と尋ねられなかったからです。イエス様の答えは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(9:29)というものでした。力でも議論でもなく、祈りが大切なのです。
祈りは、神様に対する信頼の第一歩です。イエス様も一人で祈ること大切にしていました(1:35、6:46など)。またイエス様は父親に対して「信じる者には何でもできる」と語っていますが、それは、祈れば何でも叶えられるということではないと思います。何もできないと思ったとしても、祈る続けることはいつでも誰でもできると祈りを強調しているのだと思います。
一月は、日本人が最も祈る時期かもしれません。様々なところで様々な祈りが、いろいろな対象になされると思います。もしそれの祈りが、心から平和を望み、誰かの苦しみがなくなることを祈るのであれば、主イエス・キリストの神様も聞いてくださると思います。