Patrick News20170319

聖パトリック教会1957年伝道開始
2017年3月19日発行 第291号

すべての人の最後に

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

イエス様の受難予告を「怖くて尋ねられなかった」(9:32)弟子たちは、イエス様とカファルナウムに来ます。「一行はカファルナウムに来た」(9:33a)とあり、「一行」は、特定の主語を持たない三人称複数ですが、そこにイエス様と弟子たちが含まれることは確かです。

語り手は、「家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった」(9:33b)と続けます。新共同訳では、「イエス」「弟子たち」とありますが、原文は、「彼」「彼ら」とあるだけです。直訳すると、「彼らはカファルナウムに来た、そして彼は彼らに尋ねた」となってしまいますので、新共同訳のように訳すことに問題はありません。しかし、「彼ら」の中に、いろいろな意味での「弟子たち」がいたということを少し考えておく必要があります。なぜならば、35節では、「十二人」という限定的な表現があるからです。

さて、カファルナウムは、イエス様がガリラヤでの活動の中心地とした町です。そこにある家は、イエス様と弟子たちが安心できる場所です。イエス様は、そのような場所で弟子たちに、おそらく落ち着いて尋ねるのです。弟子たちが議論をしていたという描写はありません。しかし、イエス様の質問で、その様子が暗示されます。また「議論する」という動詞は、「議論をする、討議する」という」意味もありますが、何かについて「考える、考察する」という意味もあります。

弟子たちは何を議論していたのか、何を考えていたのか、イエス様だけではなく、弟子たちに視点を合わせて物語に触れていた読者にとって、その問いは期待を持たせます。当然、「怖くて尋ねられなかった」、イエス様の受難について、真剣に語り合い、考えていたと期待したいのですが、そうではなかったのです。語り手が、まず「彼らは黙っていた」と告げ、そして「なぜならば」と黙る理由を告げるからです。理由とは、「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたから」(9:34)でした。黙るというのは、弟子たちもまずいことをしたという自覚があった証拠と言えるかもしれません。

イエス様にとって最も大切な受難について告げ、弟子たちは、理解できなかったにもかかわらず、話し合っていた内容は、誰が一番偉いかということでした。ここでも、マルコ福音書という物語の特徴である、イエス様に対する「弟子の無理解」が表れています。より鮮明になってきています。

語り手は続けます。「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた」(9:35a)。イエス様は、座って呼び寄せて教えを語ります。「座って」とあえて表現されているのは、先生として弟子たちを教える姿の描写です。「十二人」という表現は、すでにいくつかの個所でも用いられています(3:14、4:10、6:7、10:32、11:11、14:10など)。この数は弟子たちの数を示しているのですが、弟子たちの数は、十二人には限定されていませんので、弟子たちの中でも特別な人数という意味になります。いろいろな弟子がいるが、その代表の十二人に向けて語っているのです。

イエス様の語った内容は、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」です。「いちばん先」はよいのですが、「すべての人の後」は、少し原文とニュアンスが異なります。「後」は、原文では、「最後」ですので、「すべての人の中の最後」になりなさいと語っているからです。そして、「仕える者」になりなさいとありますが、これは「執事」(ディーコン)の語源になっている言葉、「仕える、奉仕する」という動詞と同根の名詞です。直訳すれば「すべての人の奉仕者」になりなさいとなります。

このイエス様の言葉は、不思議で唐突のように思えますが、弟子たちにとっては、示唆に富んだ重要な言葉です。イエス様の受難について頭で考えようとして、理解できずに思考停止に陥り、自分たちの願望のまま歩もうとしてしまっている弟子たちに対して、実際に行動することを通して、理解しなさいと促しているからです。「すべての人の後になり、すべての人に仕える者」になれば、イエス様の言葉の意味は、しっかりと理解できると語っているからです。なぜならば、受難の意味、そしてその意味が示す復活の命とは、欲しいと願い、一番を競い合い、奪い合って獲得する事柄ではないからです。

このイエス様の言葉は、逆に言えば、もし最後になったとしても、またすべての人に仕えることになったとしても、神様はしっかりと見ておられ、最初に慰めを下さる、そのように教えているようにも思えます。なぜそのようなことが言えるのか、それはイエス様ご自身が、全ての人の最後であり、またすべての人に仕える方であったからです。そしてそのことの最大のしるしが、十字架の姿に他ならないからです。そして同時に、そのイエス様が復活の初穂であられるからです。これからも復活に向けて、受難についての様々学びを深めたいと思います。