パトリックニュース最新号(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2018年6月17日発行 第305号

神の愛に応えること
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

 

善い先」と呼び掛け、永遠の命について尋ねた「ある人」に、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」とイエス様は唐突に答えます。「善」であるのは主なる神様だけだと最初に断言したのです。そして、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と続けます。この答えは、モーセの十戒から抜粋したような答えでした。


尋ねた「ある人」は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えます。彼は、小さいときから律法を忠実に守る、まじめな人であったのです。だからこそ、律法には書かれていない、永遠の命を、どう受け継ぐのか、イエス様に質問に来たのでした。


ここで、「善い」という言葉の意味が重要となります。ここでの「善い」という言葉は、特別な用語ではありません。ただし、一般的な尺度の良いか悪いかという「良い」でも、法律的に正しい「義」でもありません。「本質的に善いこと」を意味する言葉です。イエス様に質問してきた人は、自分は、本質的に善い方である、主なる神様から与えられた律法を、若い時から十分に守ってきた。だから永遠の命という新しい課題には、別の本質的に善い先生から教えをいただきたいと思ったのだと思います。

彼は、その意味で二つの間違いを犯していました。一つは、神様から与えられた律法を、自分は十分に守っていると判断してしまったこと、もう一つはイエス様に別な善を求めたことでした。彼は、イエス様に「善い先生」と呼び掛けて時点で、その間違いを指摘されていたのでした。


律法は、完全に守ることのできない法律ではありません。しかし、それで十分だという到達点がない法律です。なぜならば、律法とは、主なる神様の無限の愛に応える方法だからです。すべての被造物を愛そうとされる、主なる神様が、その愛に応えるようにと、特にユダヤ人を中心に与えた法律に他ならないからです。


イエス様が、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と答えた時、尋ねた人はそのことに気が付くべきでした。そして自分がどれほど律法を実行したとしても、神様が自分に注いでくれる愛に比べれば、充分という到達点はないと気づくべきでした。そしてもし永遠の命があるとするならば、それは何かに到達したらもらえる特典のようなものではなく、主なる神様の愛の賜物に他ならないと気づくべきでした。


尋ねた「ある人」は、誠実でまじめな人であったと思います。それはイエス様の対応で分かります。イエス様は「彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」と命じられるからです。「慈しんで」とありますが、これは「愛して」とも訳すことが出来ます。愛(アガペー)と同じ語幹の言葉です。


イエス様は、主なる神様がすべての被造物を愛されたように、誠実な彼に対して、心からの愛を注いだのでした。そして、だからこそ足りないのは、たった一つであると教えられたのでした。しかし、結果は、残念なものでした。「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った」からでした。理由は「(彼は)たくさんの財産を持っていたから」でした。


新共同訳では、「金持ちの男」と小見出しがついていますが、物語は、最後にそのことを告げます。彼はお金持ちでした。イエス様の時代、お金持ちは、悪でした。人から奪い取る以外に、お金持ちにはなれなかったからです。また律法を忠実に守っていれば、お金持ちにはならないはずだからです。


ただし、彼は決して悪ではなかったと思います。お金持ちの家に生まれ、清く正しく律法を守りながら生きてきたのだと思います。「財産」と訳されている言葉は、「(土地などの)資産」とも訳すことが出来ます。彼は、代々の資産を受け継いで、社会的に多くの責任を負っている立場だと想像できます。彼は、責任がある以上、簡単に資産を放棄できないのでした。


彼の悲しみは、貧しい人たちの悲しみとは異なります。しかし、彼の悲しみは、目標が分かっていながら、それを実行することのできない悲しみです。彼のその後についての物語は福音書にはありません。しかし、もし彼がイエス様の愛に気づき、そこから、すべてのものを愛される主なる神様の愛に、改めて気付いたならば、自分なりにイエス様に従う道を見出したかもしれません。そしてその道を歩み始めたならば、その先は、永遠の命につながっているだと思