パトリックニュース最新号(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2018年9月16日発行 第307号

来たるべき世の永遠の命
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

資産をたくさん持っていた男が立ち去った後、イエス様が弟子たちに教えた事柄は、神様にすべてをゆだねる信仰でした。すると弟子たちの代表であるペトロはイエス様に、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い始めます(10:28)。この部分は、直訳すれば、「わたしたちこそは、すべてを捨てて、あなたに従って来ています」となります。ペトロは、神の国に入れるような信仰を持っています、と答えたわけではありませんが、その言葉は、それに近い自信に満ちた発言と言えます。


「従う」という言葉は、マルコ福音書でいくつか用いられていますが、ことにペトロと関係があり印象深い個所は、1章18節です。イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたシモン(ペトロ)と兄弟アンデレは、「すぐに網を捨てて従った」のです。1章18節で、ペトロとアンデレが捨てたのは、「網」だけですが、それはもちろん、今行っている仕事を捨てたことを意味します。仕事をやめて、故郷も離れて、イエス様と行動を共にし、その行動を今も続けているのですから、「すべてを捨てて従った」という表現は、決して誇張ではないと思います。しかし、物語の流れが暗示している事柄は、弟子たちはイエス様のことを誤解し始めて、行動は共にしているが、精神的・信仰的には離れ始めているということです。そのため、ペトロのこの自信に満ちた発言は、むしろ、そのことに気が付かない姿を示してしまっています。


そのような弟子たちに対して、イエス様は、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける 」(10:29-30)と語ります。この箇所は、迫害を恐れず信仰を守れば、この世界でも、後の世でも報いを受けると語っているですが、内容的には複雑です。


家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」は、その人にとって、大切な物理的・精神的な財産と言えます。ここは、それらを捨てたとしても、その百倍を受けると語っているのですが、百倍の方には、「」がありません。「母」だけ百倍もおかしいのですが、これらからも、ここは、捨てた財産が100倍になるというような、怪しい投資話のような内容ではないことは明らかです。また、「わたしのためまた福音のために」という部分も大切なポイントです。「イエス様のため迫害を恐れず戦う」、そのような言葉は勇ましいですが、頑張る方向を間違えると、イエス様の示される愛と程遠い行為を生み出してしまいます。だからこそ、「福音のため」という部分があるのです。福音とは、マルコ福音書では、イエス様なさった行為のすべてを意味します。イエス様と同じように行動して、もし迫害を受け何かを失うならば、その百倍報いを受ける、ここではそのように語っているのです。


これらのことから、この世界で受ける百倍の「家、兄弟、姉妹、母、子供、畑」が、信仰的なつながりのことだとわかります。言い換えれば、教会というつながりの中での、物理的・精神的財産を得るということです。その中に「父」がないのは、イエス様を遣わされた「父なる神様」がその中心におられることを示しているのでしょう。それは、たとえ迫害の中にあっても、恵みと幸せに満ちた信仰の報いである、そのように語っているのです。


しかし、最終的な目標は、「後の世の永遠の命」です。この部分は、直訳では「来る世における永遠の命」です。以前の口語訳では、「来るべき世では」とありました。新共同訳では、それがこの世界ではないことを明示するために、「後の世」と訳したと思いますが、終末の到来というニュアンスが薄くなってしまっています。


現代でも、様々な対立の中で、他宗教に対する迫害が原因で、物理的・精神的な財産を失う事例はあります。かつては、キリシタン禁制の高札が掲げられていた日本もそうでした。しかし、現代の日本は、そうではありません。その意味では、宗教的な迫害によって財産を失うことへの、切迫した危機感はないかもしれません。それはよいことです。しかし、それがもし、「永遠の命」と、そこから生まれる本当の平和を希求する気持ちも、薄めてしまうとするならば、イエス様を信じる者として、残念な事柄であると思います。「来たるべき世の永遠の命」、この言葉は、確かにあまりリアリティを持たないかもしれません。しかし、そこに真の希望があることを忘れないようにしたいと思います。