まじわり149号

 

2016年 10月9日発行 まじわり149号                   

【巻頭言】  『朽ちることのない命の力』                    司祭 バルナバ 菅原裕治

 今回は、へブル書の七章から学びます。6章では、イエス様が、永遠にメルキゼデクと同じ大祭司であることが語られました。7章ではそのことを受けて、創世記14章18~20節の物語から、メルキゼデクについて詳しく述べています。

 メルキゼデクという名前は、旧約聖書の中で2回しか登場しません。創世記の物語のほかは、詩編110編で引用されるだけです。不明な点も多いこの人物は、特別な意味を持っています。

 著者は、創世記の物語をもとに「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。」(7・1~2a)と説明します。この部分は、「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た~~アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った」という創世記の物語と大きな相違はありません。

 次に著者は、「メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です」(7・2b)と述べます。この部分も、メルキゼデクという言葉の一部「ツェデク」が「義」を意味すること、称号にある「サレム」が、平和を意味することもあり、特別な説明ではありません。

 次に著者は「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(7・3)と述べます。これは、創世記には書かれていない説明です。むしろ、創世記に書かれていないからこそ、メルキゼデクについてこのように解釈して説明しているのです。

 王であり祭司であり、特に「いと高き神の祭司」であるメルキゼデク、彼は、アブラム(アブラハム)を祝福し、アブラム(アブラハム)がすべてのものの十分の一を捧げた人物です。これだけでもかなり特別な人物ですが、著者が、メルキゼデクが特別だと主張したい点は、それだけではありません。彼が、祭司レビの系列とは異なる、神からの絶対的な召命による特別な祭司であり、命の始まりも終わりもないような、神の子のようで、永遠に留まる祭司であると見ている点です。

 著者は次に、祭司の家系・部族であるレビ人や、その制度の基となる律法を関係させながら、メルキゼデクの特別さを説明します。「この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。」(7・4~5)から始まる説明を通して、著者はレビ族の祭司の系列と、メルキゼデクの違いを、十分の一という事柄を関連させて、述べていきます。この後に続く、著者の説明は、少し論理的に無理があるようにも思えます。しかし、それは当然の事柄です。なぜならば、イエス様が律法も祭司の家系も超えて、救いと命をもたらす方であるということを悟ってから、初めて明らかになった事柄に他ならないからです。

 イエス様が祭司であることは、旧約聖書からは導き出せません。しかし、メルキゼデクに注目する時、そのことがすでに暗示されていたことが分かるのです。同時に、メルキゼデクという不思議な人物も、イエス様によって、その謎が説かれるのです。

 モーセの働きと出エジプトという出来事、そして、そこからイスラエルに与えられた律法と掟が重要であるのは確かです。また、それに基づく祭司による神殿祭儀も重要です。しかし、メルキゼデクというレビ系祭司とは全く異なる人物の存在する意味が、イエス様によって初めて理解され、また、イエス様が決定的な救いをもたらす祭司であることが、メルキゼデクの存在と関連させて浮彫りにされたのです。

 著者は次にその祭司であるイエス様について述べます。「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです」(7・16)。イエス様が祭司として立てられたのは、律法の帰結ではありません。すべての人の救いを願う、神様の「命の力」によって建てられたのです。「律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」(7・19)。神様の定めた律法は間違っていないのですが、その先には、死があります。その点だけを見ると、律法に希望を感じません。そこから人々は道を間違ってしまうのです。しかし、イエス様を信じる者は、復活の命の希望で、死を通して神様に近づくのです。

 律法に基づく地上の祭司やそれに伴う約束は、将来すたれるかもしれません。「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです」(7・24)。つまりイエス様は、永遠の祭司職を持っておられるがゆえに、イエス様が示す希望と救いは、永遠に変わらないのです。

 著者は、旧約聖書から新しいものを見いだしました。それは論理的に積み上げた事柄ではなく、イエス様に出会い、今まで知ることのできなかった事柄を、すでに読んでいた聖書から得た、見出したということです。

 聖書に限らず、人間は、すでに存在する理論や価値観に重点をおき、それに歩みを左右される傾向にあります。その先には正義も平和もありません。私たちは、イエス様を通して、イエス様の背後にある、「朽ちることのないいのちの力」を受けているのです。この事を深く覚えつつ、歩んでいきたいと思います。その力に促されて、私たちの教会の歩みから、正義と平和に結びつく事柄を見出していきたいと思います。