パトリックニュース最新号(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2018年10月21日発行 第308号

恐れること、驚くこと
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

イエス様は、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(10:29-30)と、永遠の命について一つの結論的な教えを語った後、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と教えを続けます。このイエス様の言葉は、先の結論、すなわち、イエス様に従うために、すべてを捨てたとしても、それが永遠の命を受け継ぐ絶対条件ではないと告げていると言えます。永遠の命は、人間の努力で獲得する何かではなく、主なる神様の恵みに他ならないからです。だからこそ、最後においても、人間が先と思ったものが後になり、後にあると思ったものが先になるという逆転がある、そのように語っているのです。


その結論を語ったのち、イエス様は、エルサレムへ進まれます。それは、「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」と語られています。「一行」とは、特定の主語を持たない三人称複数であり、直訳すれば「彼ら」ですが、ここでは、弟子たちを含めて、イエス様について移動しているすべての人を示します。「途中」という表現は、直訳すれば「道の中で」となります。その道とは、物理的には、エルサレムに向かう道ですが、信仰的には、十字架の受難へと向かう道です。イエス様は、すでに二回、ご自分の受難について予告していました(8:31、9:31)。「先頭に立って進んで行かれた」とは、直訳すれば、「先導する、前を進む」という意味です。イエス様は、受難の道を率先して歩み始めたのでした。


その姿を見た、イエス様と行動を共にしている人びとの反応は、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(10:32a)と語られています。「弟子たちは驚き」とありますが、原文には「弟子たち」という言葉はありません。直訳すれば「彼らは驚いた」であり、文脈から驚いたのは「弟子たち」であろうと、言葉を補って訳してあるのです。なぜならば、次に、「従う者たちは」と、弟子たちとは別の集団であるかのような人々が、「恐れて」いるからです。しかし、この部分は、弟子たちが驚き、他の人々が恐れたというよりも、弟子たちと他の従う人々との境目がなくなり、イエス様と行動を共にしている人びとすべては、「驚き」また「恐れた」と告げていると思います。「従う」という言葉は、弟子たちがイエス様に従う時にも用いられている言葉でもあるからです(10:28)。そして、「驚き」また「恐れ」は、マルコ福音書という物語の中で、登場人物たちが、それ以後の行動の分岐点となる反応でもあるからです。その意味では、ここでエルサレムへの道、十字架の受難への道を歩まれるイエス様の姿を見て、弟子たちをはじめとして、従っているすべての登場人物は、驚き恐れた。彼らは、そののちどのような行動を選択するのか、そのように読者の関心を集めていると言えます。


特に、弟子たちについては、すでに二回目の受難の予告を聞いた際の反応が、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(9:32)と記されていました。弟子たちは、イエス様の受難の予告について、恐ろしさのあまり、考えることをやめるという選択をしていたのでした。しかし、その後、永遠の命についての教えがあったが、弟子たちに変化はあったのであろうか、物語は、そう読むものに問いかけていると思います。


「驚くこと」「恐れること」それらは、異なる単語であり、意味する行動も異なります。しかし、神様を信じる時、またイエス様に従おうとする時、大切なキーワードです。


人間的な視点や価値観で何かに驚く時、その対象がどんなに壮大な規模の事柄であったとしても、それは神様の意志を見失ってしまうこととなります。しかし、どんなに些細なことであっても、神様の愛の業に驚かない時、それも神様の意志を見失うこととなります。同様に、人間の視点や価値観で何かを恐れる時、それがどんなに強大であったとしても、神様への信頼を失うこととなります。そして、主なる神様を恐れない時、当然それも神様への信頼を失っているのです。


これらのことを逆に考えれば、人間の視点や価値観から、どれほど絶望的な状況だと思ったとしても、その状況に驚き恐れず、主なる神様への信頼を失わなければ、希望は必ずあるということです。それは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(10:28)という言葉の通りです。