Patrick News20170416

聖パトリック教会1957年伝道開始
2017年4月16日発行 第292号

復活を受け入れる

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

すべての人に仕える者になりなさい」と一二人に告げられたイエス様は、一人の子どもの手を取って抱き上げて、一二人の真ん中に立たせて教えを続けます。唐突に子どもが登場しますが、イエス様の周りにはいつも子どもたちがいたのでしょう。

イエス様は 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(9:37)と語ります。ここにある「子ども」という言葉は、幼児から今でいう小学生ぐらいまでのいわゆる子ども、大人ではない年齢の人間を意味します。

イエス様の時代には、子どもが成人になることを祝う習慣はなかったようです。しかし、子どもは、大人ではない未成熟な存在として、文字通り一人前には扱ってもらえなかったことは確かなようです。

イエス様は、そのような「子ども」を、弟子たちの真ん中に立たせました。イエス様はかつて、「片手の萎えた人」を会堂の真ん中に立たせて、奇跡と教えを実行したことがありました。誰かを真ん中に立たせるとは、ここでも同じように、その人を題材とするためです。立たされた子どもは、少しかわいそうな気もしますが、「すべての人に仕える者になりなさい」という教えの具体例として、そう述べているのです。

ただし、イエス様の教えは、単に子どもを受け入れなさいということではありません。なぜならば、「わたしの名のために」という言葉があるからです。また次の「わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」ともあるからです。イエス様は、人間的な様々な思いで、単に子どもを受け入れることを教えているのではなく、神様を受け入れるには、イエス様の名前によって子どもを受け入れることが大切であると教えているのです。逆に言えば、子どもを未完成の大人として低く見ることは、神様を受け入れないことと同じなのです。

イエス様は、この後の物語で、子ども題材として「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とも教えています。イエス様は、なぜこのように子どもを、信仰にとって大切な題材とするのでしょうか。それは、子どもという存在が、未成熟であるがゆえに、一人では生きられないからです。誰かがいないと生きられないからです。言い換えれば、誰かとの関係を断ち切っては生きられない存在であるからです。

一人で何でもできるようになること、それが大人とうい存在かもしれません。しかし、そこには一つの落とし穴があります。自分が中心となり、自分の欲望や願望を満たすために、誰かをあるいは世界を動かそうとしてしまうからです。そこから、誰かに仕えることではなく、多くの人に仕えられることを求め、対立が生まれ、奪い合うことも始まります。そのような大人たちが、自分たちの妨げとなるイエス様を排除しようとしました。

そのような大人たちを受け入れるにはどうしたらよいのでしょうか。イエス様の答えは、十字架の死に至るまでそのような人たちを受け入れ続けることでした。そこに本当の平和があります。復活とは、そのイエス様の歩みが、本当の平和の実現のために最も正しく、最も大切であることを、神様が証ししたことに他なりません。

復活を受け入れることとは、本当の平和を望み、受け入れることに他ならないのです。