Patrick News20170716

聖パトリック教会1957年伝道開始
2017年7月16日発行 第295号

小さな者の一人

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(9:42)。一杯の水を譬えとした、愛の業について述べたあとに、このような恐ろしい警告が続いています。

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」は、文字通りの訳ですが、写本によっては「わたしを」という部分がないものがあります。すぐ前の部分では、愛の行為の対象が、信仰者だけに限らないようにも思えたのですが、ここは違います。つまずかせるか否かという対象ですが、それは「わたし(イエス様)を信じる者(キリスト者)」に対してと限定されています。

「小さな者」という部分は、物理的・距離的な意味での小さい・短いという形容詞を名詞として用いた表現です。ここでは精神的・存在的な意味で用いられています。「信じる小さな人」ですから、単純に言えば信仰的に弱い人という意味でしょう。この表現は、聖書のいくつかの個所に見られます(マタイ10:42、18:10)。マタイ福音書にある有名な「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40,45)という部分は、この「小さい」という形容詞の、最上級に相当する言葉が用いられています。しかし、マルコ福音書ではこの表現はここだけです。その意味では、マタイ福音書が、信仰的に弱い人への配慮を、教会の倫理として非常に重要視しているのに対して、マルコ福音書では、まだそのようには確立していないと言えるのかもしれません。

「つまずかせる」という言葉は、聖書で「つまづき」と訳される名詞(マタイ13:41、18:7など)と同じ語源の言葉ですが、元来の意味は、動物などを捕るための「わなを仕掛けること」を意味します。日本語と同じく、物理的な罠が、精神的な意味に用いられているのです。

もし教会の信仰的に弱い人をつまずかせるとどうなるか、言い換えれば、罠にかけるようなことをしたらどうなるか、それに対する答えが以下に続きます。そこにあるのは少し恐ろしい表現です。

「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」の「大きな石臼」は、本来はローマ帝国が街道の距離を示すために設置した、マイルストーンを意味し、そこから大きな石、特に粉を引く石臼を意味するようになった言葉です。それを首にかけて海に投げ込まれた方がよいと言っているのですから、端的に言えば「死んだほうがまし」と言っているのです。とてもイエス様の言葉とは思えない表現です。もちろん、そのような事態の発生を望んでいるのではなく、キリストを信じる人の中の、まだ信仰的に弱い人をつまずかせることの罪深さをここでは強調しているのだと思います。

ここで、この「小さい者」という表現について、もう少し深く考えてみたいと思います。先に見た通り、「わたし(イエス様)を信じるこれらの小さな者の一人」とあるわけですから、世間一般の社会的・経済的・身体的に小さい・弱い立場の人ではなく、イエス様をキリストと信じる人の中の小さい人という意味です。それでは、次に信仰的に小さいとはどのような意味でしょうか。「小さい」は、物理的距離的に小さいことを意味しますので、信仰歴の短い、まだ確固たる信仰を持てていないというような意味ですが、それだけではないと思います。信仰歴の長いか短いかという関係だけではなく、いろいろな事例が考えられると思います。それゆえ、逆に小さくない人ということから考えますと、それはしっかりしていて、少しのことには全く動じず、いつでも立派に歩むような人でしょう。そのような人は、そもそも少々のことではつまずかないかもしれません。「小さな者」とはそのように立派に歩めない人のことだといえるのです。
現代の平和な日本では、大雑把な言い方ですが、一般的な水準の生活をしている人にとって、神様を信じるか否かは、たくさんある行動の選択肢の一つにすぎないかもしれません。しかし、格差、不平等、不条理な出来事が当たり前のようにあったイエス様の時代において、イエス様が示された共に食する共同体にある慈愛と、イエス様の十字架と復活が示す死が終わりではないという希望は、それを見出し

た人にとって、掛け替えのない唯一の宝であったと思います。
そのような唯一の宝を大切にしている人をつまずかせてはならない、その唯一の希望を奪うようなことは決して許されない、イエス様はそう警告しているのだと思います。イエス様を信じる集団が、様々な小さい者への配慮に満ちた集団となる時、それは社会の中で慈愛と希望を示す、ひとつのともし火のような存在になります。事実、教会は当時のローマ社会の中で、人々を救いと慰めへと導くともし火であったのです。