パトリックニュース最新号(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2019年1月27日発行 第311号

仕え合う
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

物語は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、ひそかにイエス様に厚かましいお願いをしたことを知り、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」(10章41節)と告げます。


ここでは明らかに十二人という人数が前提となっていますが、彼らは弟子の中でも特別な人々です。弟子たちはすでに、イエス様との関係においても、互いの関係においても、崩れ始めていたのです。イエス様はそのことを察して、「一同を呼び寄せて言われた」のでした。ここでも、弟子を反面教師として読者に大切な教えを語っているのです。


最初にあるのは「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」(10:42)という言葉です。「異邦人」とありますが、原語は、「民族、部族」などを意味する言葉です。ユダヤ人にとって自分たち以外は、「異邦人」ですから、従来の訳では、そうなっていました。新しい訳では、元来の意味に近く「諸民族」となっています。「支配者」は、その意味の通りですが、「民を」という部分は直訳すると「彼らを」となっています。また、「支配し」は、先の「支配者」と同じ語根の言葉ではなく、下に向かって力を及ぼすという意味で、「圧倒する、征服する」を意味する言葉です。新しい訳では、少し意訳し「その上に君臨し」となっています。「偉い人たちが」は、特別な名詞ではなく、「大きい」という形容詞の複数形です。直訳すれば「彼らの大きい人たちは」となります。「権力を振るっている」は新しい訳でも変わりませんが、この言葉も、下に向かって権威を示すという意味です。「支配する」「権力をふるう」、二つの動詞に共通している要素は、自分を上に置き、「下に向かって」行動するということです。この部分でイエス様は、その時代の常識を語っていると言えます。そしてそれを受けて、教えが続くのです。


しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(10:43、44)。「偉くなりたい」の「偉く」は、先の「偉い人たち」と同じく、「大きい」という形容詞です。「仕える者」は、「執事」とも訳せる言葉です。「いちばん上になりたい者」の「いちばん上」は、「一番、最初」を意味する言葉ですが、新しい訳では、前の口語訳と同じく、「頭(かしら)になりたいもの」となっています。「僕」は、文字通り、「奴隷」を意味する言葉です。これらのイエス様の教えは、特別な教えであると同時に、一般化できる教え教えでもあると思います。


一般化できるという意味は、一種の金言的な意味を持つということです。どの社会も法や規則、そして習慣や倫理、そして常識があり、それらにともなう秩序があります。そしてその秩序は、上下関係を伴う場合があり、それがどんな小さな規模のものであれ、下に向けて抑圧的になる場合があります。また抑圧的であるからこそ、秩序が保たれる、また上限関係があるからこそ、上を目指して挑戦する意欲が生まれるとも言えます。逆にすべての条件を平等・均質化することは、むしろ不公平である場合もあります。しかし、どの時代のどの社会においても、より良い関係を築くには、この要素を忘れてはならない、イエス様はそう語っておられるとも言えるのです。
しかし、イエス様は、これらの教えに次の言葉を続けています。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(10:45)。この部分が、この教えに、単なる金言であることを超えて、特別な意味を持たせています。「身代金」という言葉の第一の意味は、奴隷を解放するための代金です。そして「自分の命を献げる」は唐突のように思えますが、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである 」(8:35)とすでに語られた通りです。


イエス様の教えを大切な金言として実施すれば、どのような組織においても、今までよりも良い人間関係を築けるかもしれません。しかし、それにも限界があります。死への恐れは、そのようなよい人間関係を容易に破壊する可能性があるからです。しかし、わたしが贖っているので、死は恐れる必要はない、何の心配もない。イエス様はそう語ってくださっています。それがこの教えが特別でとなる理由です。そのことを示すのは、わたしたち教会に他なりません。