パトリックニュース最新号(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2018年12月16日発行 第310号

神様に望むこ
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

三回目の受難予告ののち、弟子たちの二人、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」(10章35節)とイエス様に話しかけます。イエス様が「何をしてほしいのか」と尋ねると、彼らは「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と答えます(37節)。


栄光をお受けになるとき」は、直訳すれば、「あなたの栄光の中で」となります。またこの文の目的語は、「わたしたちを座らせてください」です。右と左とは、中央の人に続く重要な地位を意味します。二人は、イエス様が最終的な地位についたら、自分たちをイエス様に次ぐ二番目と三番目の地位に、人間としては一番目と二番目においてくださいと願ったのでした。


弟子たちは、何かを起こすだろうと、予想してイエス様に従っています。その意味では、従う者が、従う相手が最終的な地位を獲得したとき、自分たちも高い地位につきたいと願うのは、世の常ともいえます。しかし、受難予告の内容を理解していれば、出てくるはずもない言葉です。


現代は、人の話を聞かないということが問題になりますが、ここの弟子たちもそのようでした。二人は、イエス様の受難予告を、ただ聞いていたのでしょう。今風に言えば、イエス様の受難予告をスルーしていたのでした。そして、イエス様の話しは終わったので、それではわたしたちの願いをと、お願いに来たのでしょう。


二人の願いを「何をしてほしいのか」と受け止めたイエス様ですが、さすがに、この願いには驚いたと思います。そこから「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と語り、新たに質問します。イエス様は、二人の無理解を指摘しただけではなく、「杯」「洗礼」という言葉を用いて、更に説明します。「杯」とは、物語のこの時点では明確ではありませんが、14章36節のゲツセマネの園で、イエス様が「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と悲痛な祈りをささげる「杯」と同じです。つまり受難の苦しみのことを暗示しています。「洗礼」は、「杯」の文脈から考えれば、「死と復活」を暗示していると思います。しかし、自分たちの地位向上に捉われている二人には、暗示では伝わらなかったようです。二人は、「できます」と、おそらく即答してしまうからです。内容を理解していれば、とても簡単に「できます」は答えられない内容であったと思います。


それでもイエス様は、言葉を続けます。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」、「ことになる」とあるのは「飲む」「洗礼を受ける」は未来形で書かれているからです。イエス様は、今は何も理解してない二人ではあるが、再び信仰の道に戻ることを予期していたのでしょう。しかし、それでも、「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」と語り、二人をたしなめたのでした。


さて、今月はクリスマスを迎えます。クリスマスと言えば、サンタさんに何を願うか、とういうことが大切です。娘たちが小さいときに、親が子どもたちに与えることを望まないものを、サンタさんに願っても、もらえるだろうかと話し合ったことがあります。娘たちは、最初はもらえると思っていたようですが、やはり無理かと悟ったようです。


大人は、サンタさんに何を望むかで悩むことはもうないと思いますが、クリスマスを通して神様に何を願うのでしょうか。世界中でクリスマスが祝われ、世俗のクリスマスという表現まであります。また教会には本当のクリスマスがあるという人もいます。


わたしたちが願うべきことは、クリスマスの一日だけでもいいから、世界中のすべてが平和であってほしいということだと思います。世界中のすべての場所で、すべての人と人との間で、すべての隔てや違いを超えて、この日一日だけでも世界に平和が満ちることです。歴史を見れば、その一日ですら、実現したことはないと思います。しかし、その日がすべての日になるために、イエス様は十字架にかかられました。そこにある愛を心に刻み、今年もイエス様の降誕を祝いたいと思います。