Patrick News20170618

聖パトリック教会1957年伝道開始
2017年6月18日発行 第294号

神の愛を示す業

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」、そう語ったイエス様は、「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(9:41)と教えを続けます。
ここは翻訳が少し難しいところがあります。まず新共同訳で「キリストの弟子だという理由で」となっている部分ですが、ここは直訳すれば「あなたがたがキリストのものだという理由で」となります。以前の口語訳では「キリストについている者だというので」となっていました。ここは、「あなたがたは~である」といういわゆるBe動詞の二人称複数と「キリスト」という言葉の属格から成っています。新共同訳でも口語訳でも明確ではないのですが、主語は、「あなたがた」です。イエス様は、一般論を語っているのではなく、目の前にいる、弟子たちにあなたがたがと明確に語り掛けているからです。「あなたがた」を入れた方が、主語が明確になるのですが、日本語としてはくどくなってしまいます。


次にこの部分には、原文に「名前で」という語句があることです。この語句を「水を飲ませてくれる」に結びつけますと、「名前で水を飲ませてくれる」と意味が少し不明確になってしまいます。そのため新共同訳も口語訳もそして岩波訳でもそのように訳してはいません。いくつかの英語訳聖書では、そのような訳もあります。しかし、不自然さをなくすために「わたし」(イエス様)という言葉を補って、「わたしの名前」としている英語訳聖書もあります。


文脈をから考えますと、この方がよいとも思えます。もともとこの箇所は、イエス様の名前で(原文では「あなたの名前で」)、勝手に悪霊追放している人を、弟子たちがやめさせよとしたということから始まっています。そこから「わたしの」という言葉を補うと、弟子たちがイエス様に言う「あなたの名前」、イエス様が弟子たちに言う「わたしの名前」と、物語の内容的にも内容がつながるように思えます。つまり弟子たちは、イエス様の名前(あなたの名前)で、弟子たちに無許可で勝手に悪霊追放をしている人をやめさせたようとした。しかし、イエス様は、そのような弟子たちが(あなた方が)、もし渇いているときに、イエス様の名前(わたしの名前)で水を一杯でもくれる人がいたとしたら、その人は報いから漏れないと対比していることになります。
そのためか、「わたしの」という言葉を補った聖書の写本も少なくありません。ただし、新共同訳は、「わたしの」という言葉がない写本を底本として採用しています。


またこの「名前で」という語句は、「キリストの」という部分に結びつけることも可能です。その場合は、「あなたがたが、キリストの名前において、存在しているという理由で(水を飲ませてくれる者は)」というような訳になります。新共同訳も口語訳も実質はこの組み合わせから、少し意訳しているのだと思います。この場合は、先にみたような動作における名前の直接的な呼応関係はなくなりますが、訳としてはすっきりとします。


ただし、この「キリストの名前」という表現も、意味が自明なわけではありません。わたしたちや、福音書の想定される読者は、キリストが誰であるかを当然知っています。しかし、「キリスト」という言葉が誰を指すのかということは、この時点では、物語の登場人物たちにはまだ明示されていないのです。そこから「キリスト」をどう訳すかも問題となってしまいます。「キリスト」という言葉は、元来は、「メシア」という言葉の訳語ですから、もし「メシア」と訳せばよいかというと、「メシアの名前で」となり、何を意味しているか不明確になるからです。


翻訳の難しさはありますが、イエス様はこの物語の中で、イエス様から少しずつ内容的に離れつつある弟子たちに対して、立ち返るヒントを与えているのだと思います。今イエス様の目の前にいる弟子たちは、イエス様に従ってはいますが、悪霊追放という大きな業もできるようになり、おごり高ぶっていました。イエス様はそこで、もしあなたがた・弟子であるという理由だけで、水一杯を飲ませてくる人がいたら、たったそれだけの行為でも、その人は、報いを失うことはないと語り、そこから何が大切かを学びなさいと教えているのです。
水を一杯飲ませるという小さい業、「ベン・ハー」という物語・映画では、最初と最後にある有名なシーンであり、また結構命がけの行為でした。しかし、なぜその小さい業が尊ばれるのか、それは、イエス様の奇跡的な行為も教えも、自分の力を示すためではなく、この世界に注がれる神様の愛を示していることに他ならないからです。