Patrick News20170917

聖パトリック教会1957年伝道開始
2017年9月17日発行 第296号

地獄の意味

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

イエス様を通した救い、すなわち死を超えた永遠の命、そのような唯一の宝を大切にしている人をつまずかせてはならない。その警告に続き、厳しい言葉が続きます。


もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」(9:43)。ここでは「つまづかせる」という言葉が、他の誰かではなく、イエス様の言葉を聞いている人に向けられています。そしてもし自分の手が、自分をつまずかせるなら切り捨てなさい、地獄に行くよりはよいからという命令です。同じ表現構造の命令が、体の部位を、足、目と変えて続きます(9:45、47)。そして地獄とは、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」ところ(9:48)だと表現されています。前の口語訳ではそれぞれに同じ表現が繰り返さていましたが、新共同訳では、後の付加として削除されています。


ここの地獄という言葉は、ギリシア語で「ゲヘナ」です。岩波訳のみが「ゲヘナ」とそのまま使っています。もとはヘブライ語の「ゲヒンノム」であり、これは「ベン・ヒンノムの谷」という具体的な地名を指します。エルサレムの南に位置する谷です。現在のイスラエルでは、旧市街ユダヤ人地区から南に500メートルぐらいのところにあります。検索サイトの地図で見ると、道路は「Gey Ben Hinom ST(ベン・ヒンノム谷通り)」と表記され、道路上にゲヘナと表示されます。


この場所が地獄を示すことになった理由は、この場所で モロク祭儀が行われていたからです。モロク祭儀とは、アンモン人の宗教であり、彼らの神モロクに子どもを火で焼き尽くす捧げものとささげていました。いわゆる人身供犠です。アンモンは今のヨルダンに位置する地域です。アンモンは、ロトの子孫ですので、ヤコブ(イスラエル)といとこ同士となりますが、イスラエルの神を信じている人々ではあく、またイスラエルと敵対することもありました。彼らの礼拝場所がエルサレムのすぐ南にあるのは、ソロモン王がそれらを建てたからでした。


列王記上11章7~8節には「そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行ったので、彼女らは、自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた」とあります。これは、ソロモンが沢山の妻たちの中には、近隣諸国出身の外国人もいたので、それぞれの出身地の文化を重んじて礼拝場所を作ってあげたということです。しかし、それは、「ソロモンは主の目に悪とされること」(列王上11:6)でした。それゆえ、この行為はイスラエルを南北に分裂させる理由の一つともなりました。またソロモン(紀元前10世紀)から始まったこのモロク祭儀は、南北分裂後も続き、北イスラエルのアハブ王や南ユダのマナセ王にも受け継がれ、南のユダ王国のヨシヤ王(紀元前7世紀)の宗教改革の時まで続きます。


人間の子どもを焼き殺す礼拝をした場所・ゲヘナは、ユダヤ人たちにとって、忌み嫌われる場所となり、後に罪人や動物の死体を焼く場所となります。おそらく絶えず火がくすぶり、悪臭が漂う場所であったのだと思います。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」というイエス様の言葉は、この具体的な現象から来ているのだと思います。そこから、この場所が、罪を犯した人間が行く場所、死後の罰をも意味する場所の象徴として用いられるようになったのです。預言者エレミヤも長老と祭司を連れてそこで陶器師の壺を割り、ユダとエルサレムに対する審判を預言する場所としました。


日本語の地獄は、仏教用語、六道の下位三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)が起源ですので、死後の世界のことではありますが、ゲヘナとは少し意味が違うと思います。また日本の神話を見れば、死後の世界は黄泉、常世と表記されていますので、それもゲヘナとも地獄とも異なっています。それぞれの違いの詳細はここでは述べませんが、ここで大切なことは、地獄・ゲヘナが、イエス様が、そこに落ちないようにと人々に願っている場所だということです。


そもそもイエス様は、誰も地獄に降ることがないようにと、十字架にかかられました。エゼキエル書33章11節に「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」という言葉がありますが、その通りのことをイエス様は示されたのです。イエス様にとって、地獄とは、悪人が下ってほしい場所ではなく、誰も行かなくてよい場所という意味です。そしてそれだけではありません。イエス様を信じる者同士が助け合い受け入れあうことを通して、地獄と類似する場所を、決してこの世界に作らない、そのことを心に刻むという意味もあると思います。