Patrick News20171015

聖パトリック教会1957年伝道開始
2017年10月15日発行 第297号

塩、そして塩味
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(9:49~50)。


地獄について語ったのち、イエス様はこのように続けます。この部分は、内容的に考えて前後のつながりがあまりよくありません。おそらくすぐ前とは、本来独立したお話であり、「人は皆、火で塩味を付けられる」という部分から、マルコ福音書の著者がつなげたのだと思います。そこにある「火」という言葉が、すぐ前の9章43、48節で用いられた言葉と同じだからです。それ故、イエス様がこの言葉を元来どのような状況でまた意味で語ったのかを知ることは難しいと思います。あくまで、物語の中で、どのようなこと意味を持つのかということしか、知ることはできないと思います。


そしてそうだとしても連続性が明白になるわけではありません。「」という言葉は、すぐ前では「地獄の消えない火」という表現の中で用いられていました。地獄の刑罰という恐ろしいイメージの表現です。そのため、そのイメージのまま全ての人に塩味をつけるものと肯定的に考えると、少し論理的に矛盾してしまうのです。おそらく、その恐ろしさというイメージのみが継承され、それが人に塩味をつけるということとつながっているのだと思います。すなわち、神的な事柄を恐れること、あるいは恐ろしい試練に会うこと、それらを通して、人は塩味をつけられる、この箇所は、そのように語っているのだと思います。その意味では、この個所のも全ての人が地獄に行かないようにと願うイエス様の話しが、続いているのです。自分自身の中に塩を持っていれば、決して地獄に落ちることはないということです。


塩あるいは塩味という事柄は、「地の塩、世の光」という言葉がある通り、聖書にあるシンボルとして有名です。それは、単に食についてではなく、信仰あるいは人間の生き方の譬えとして用いられているからです。しかし、新約聖書の中で塩という言葉が用いられている箇所は、4か所しかありません(マタイ5:13、マルコ9:50、ルカ14:34、コロサイ4:6、回数としては6回、マルコ9:49の「塩味をつける」という言葉は、名詞の「塩」と同じ語根の動詞)。コロサイ書を除けば、すべてのここの並行箇所、そしてイエス様の言葉の中でのみ用いられています。それだけ、このイエス様の言葉が、衝撃的であるということでしょう。しかし、イエス様が語ったから衝撃的なのかというと、決してそれだけではないと思います。


塩味が、食事において重要不可欠だということは、イエス様の時代もそれ以前も、そして現代の私たち共通です。おそらく、地球上のすべての文化で共通している事柄かもしれません。つまり、このイエス様のこの言葉は、地獄についての文脈であるかどうかはもちろんのこと、イエス様の言葉であるか、あるいは聖書の言葉であるかを超えて、あらゆる文化で人に何かを伝える響きがあると言えるのです。言葉が人に何かを伝える時、その内容よりも、誰が語ったかの方が重要であると言われますが、この言葉は、むしろ誰が語っても、強く印象に残る言葉といえるかもしれません。逆に言えば、イエス様はそれだけ誰でもわかる譬えを、語られたということです。


さて、それだけ印象的な塩、そして塩味ですが、マルコ福音書の物語の中で、それが何であるかが直接説明されてはいません。おそらく、その答えは、マルコ福音書の個々の物語から、自分にとって、模範となるようなお話を見出し、導き出しなさいと促されているのだと思います。もちろん、最も偉大な模範は、イエス様の物語でしょう。しかし、それでも、自分が塩味を持つ、塩を持つという表現は、すぐに具体的に理解し実行できるわけではありません。


わたしは、塩または塩味について、印象的な言葉を受けたことがあります。それはまだ日本基督教団のある教会で副牧師であった時、20代の後半の時でした。勤務していた教会の母体となった、ある身体障害者施設の職員の方が語った言葉でした。それは「塩は溶けて初めて塩味を出す」ということでした。その言葉の意味は、教会あるいはクリスチャンは何が塩か、何が塩味かを考えることは多いが、溶けて塩として味を出すことをあまり考えようとしない、だからその点に今後気をつけなさいということであったと思います。それは、障碍者施設という現場から教会を見たからこそ、出てきた言葉であると思います。


私にとって、どのように塩味を出すかは、今でも重要な課題です。生涯続く課題といえるのかも知れません。そしてそれは、イエス様を信じる人一人ひとり、そして教会全体の永遠の課題であると思います。しかし、その先にあるのは、「互いに平和に過ごすこと」に他なりません。塩味の先には、本当の平和があることを、これからも心にとめておきたいと思います。