パトリックニュース最新号299(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2017年12月17日発行 第299号

夫ヨセフは正しい人であった
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた」(10:1b)その時、「ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである」と物語が続きます。続くのは、離縁についての論争物語です。今回は、この「離縁」という主題に焦点を当てて考えたいと思います。クリスマスの時期に、離縁の話なのか、とも思えますが、クリスマスの物語と離縁のお話は、無関係ではありません。


まずユダヤ教の律法を見てみますと、申命記24章1節に「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とある通り、離縁が認められています。ただし男性からしか申し出ることは出来ません。ここからユダヤ教社会では、紙切れ一枚書いて相手に渡してすぐ離縁が成立してしまうが、イエス様は、そのようなユダヤ教社会のあり方を批判したとよく言われますが、そうではありません。「離縁状」は直接相手に渡すのではなく、第三者が介入して渡すことによって成立します。また離縁に際しては、それ相応の金銭の譲渡も求められたようです。それは、まるで裁判をして慰謝料の授受がある現代社会と同じようです。なぜ律法がこのように結婚に関して規定しているのかと言いますと、結婚が契約であるからです。結婚は契約の成立、離縁は契約の解消に他ならないのです。


離縁状は、現代ヘブライ語では「ゲット」と呼ばれますが、聖書では異なります。聖書では、ヘブライ語でもギリシア語でも単に「書類」を意味する言葉が用いられています。この「離縁状」に関わる第三者は、宗教的な有識者であるラビや律法に詳しい律法学者がなります。そして彼らは、イエス様の時代から決して軽々しく離縁を認めていたわけではありません。


離縁された女性つまり夫から離れた女性は、元いた家、つまり父親のもとに帰ることになるのですが、それがない場合は、生活が大変でした。また夫から金銭も譲渡されなかった場合は、女性はさらに大変でした。イエス様の時代、女性が働いて自分の生活を支えることはあまりありません。それゆえ、離縁の後に女性の生活が一方的に大変になってしまうのは、現代よりもひどかったと言えるでしょう。


さて、この離縁の話しとクリスマスの物語の関係は、次の個所にあります。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ1:18~19)の個所です。


ユダヤ教の律法には、離縁の規定もありますが、姦淫の罪に関する規定もあります。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(レビ20:10)という箇所です。基本的に姦淫の罪は、結婚をしている人にのみ有効となります。マリアはまだ結婚してはいませんが、婚約関係にあるので、婚姻関係と同じ状態であることとなります。つまり夫ヨセフ以外の子を身ごもっていたということは、姦淫の罪となり、死刑になります。先ほど見た通りに、離縁は夫からしか申し出られないので、マリアとイエス様の命は、ヨセフの判断に託されていたのです。


夫ヨセフは正しい人であった」とありますが、この「正しさ」は、倫理的な正しさであり、それはユダヤ教社会においては律法的・法律的正しさを意味します。ヨセフは、感情的な事柄もあったとは思いますが、マリアについて律法の範囲内で正しく考えたのでした。そして婚約者マリアを厳しく罰するのではなく、その命、そして身ごもっている子の命を守る方法を考えたのでした。ヨセフには一つの方法しか見つかりませんでした。それは婚約を解消することでした。そうすれば姦淫ではなくなります。本来ならば、第三者が必要ですが、その点だけは、なんとかして婚約の解消をしようとしたのです。そうすれば自分の家に住んでいるマリアは、何と生きていけるだろうと考えたのだと思います。


ヨセフのこの判断は、律法に基づいていますが、マリアを姦淫の罪で訴えるようなことをせず、その命を助けようとする姿勢には、ヨセフのマリアに対する愛があると思います。しかし、ヨセフは夢で天使に指示され、マリアを妻に迎えます。律法に基づいた人間の精いっぱいの判断に、天使を通じた聖霊の働きが加わり、イエス様の誕生、この世界に新しい救いが啓示されたのでした。
イエス様は、律法の廃棄を主張していません。むしろ律法を全うすることを求めています。そこから本当の救いが始まります。クリスマスの物語もその一つです。それは、人間の真摯な努力と神様の助けを通して、この世界にまことの平和が訪れることを、今も示していることに他ならないと思います。