パトリックニュース最新号299(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2018年1月21日発行 第300号

律法の基にあるもの
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

申命記24章1節には「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と書いてあります。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(10:2)、そうイエス様にと尋ねたファリサイ派の人々は、そもそもその答えを知っていました。彼らがそれでもあえて質問したのは、物語の語り手が語るように彼らは、「イエスを試そうとした」(10:2)からでした。ファリサイ派の人々は、律法を用いて、イエス様を陥れようとしたのでした。


イエス様も離縁についての律法の教えは知っていたと思います。そこでイエス様は、彼らに「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(10:5)と答えました。イエス様は、離縁に関して大切なのは、律法にどう書いてあるか、あるいは書いてないかではなく、またどう解釈するかではなく、あなたがたの心のありかたなのだと答えられたのです。


心が頑固なので」という部分は、「頑なな心」という単語が使われています。直訳すれば「あなたがたの頑なな心のゆえに」となります。「頑なな心」、この単語の用例は新約聖書全体で3回しかありません。この部分とその並行箇所のマタイ19章8節「あなたたちの心が頑固なので」、そしてマルコ福音書の追加部分16章14節「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」だけです。この「頑なな心」という単語は、「激しい、荒々しい、厳しい」などを意味する形容詞と、「心、ハート」を意味する名詞から形成される単語です。「心」という名詞の用例が多数ある一方で、「頑なな」という形容詞の用例は珍しく、新約聖書全体で5か所しかありません。マタイ25:24(散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので)、ヨハネ6:60(実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか)、使徒26:14(とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う)、ヤコブ3:4(風に吹きまくられている船も)、ユダ1:15(すべての言について皆を責めるためである)。


「頑なな心」あるいは新共同訳の「心が頑固」、この表現は、一見、厳格である反面、柔軟性がない心の在り方を示しているように思えます。確かにファリサイ派の人々は、いい加減ではなく、律法を厳密に守ろうとした人々ですので、正しいと言えます。しかし、イエス様が頑なな心と語ったのは、それだけではないと思います。彼らの心のあり方に「乱暴さ、酷さ、冷たさ」を見出したのだと思います。つまり、ファリサイ派の人々の律法の守り方には、人を愛し慰めるのではなく、人を傷つけることがある。その点を指摘したのだと思います。実際、ファリサイ派の人々が、イエス様に律法について質問した本当の理由は、イエス様を陥れ、傷つけるためでした。そこため、イエス様は、主なる神様がなぜ律法を人間に与えたのか、その根本にかかわる事柄を問題にしたのでした。

なぜ主なる神様は人間に律法を与えたのか?それは守るためである、あるいは適正に解釈して現実に適応するためである。この答えは、正しいと同時に、それだけでは神様の意図を十分に理解していません。主なる神様が律法を人間に与えた根本的な意図とは、人間が主なる神様を愛するようになるためです。そしてその愛から人間同士愛し合うようになるためです。律法とはそのためにあるのです。ファリサイ派の人々は、自分たちが厳格に守っている律法の基には、主なる神様の愛があることを理解できなかったのです。

イエス様は、律法を軽んじたわけではなりません。プロテスタント教会で一般的に言われるような、律法を廃棄して信仰のみを大切にすることを主張してはいません。イエス様も律法を守ることを大切だと教えたのです。ただし、イエス様が示したのは、律法の基にある主なる神様の愛でした。それを、生涯を通して教えと奇跡、そして十字架と復活を通して人間に示されたのです。

昨年、私たちの教会は60周年を迎えました。「パトリックニュース」は、今号でちょうど300号となりました。毎年11号ずつ出していますので、発行が始まってから27年以上も経過したことになります。私たちの教会の歩みも歴史の中で次第に深まってきています。しかし、どんなに時を重ねても、忘れてならないことは、律法の基にある事柄、私たちの捧げる礼拝や励まされるまじわりの基にある事柄です。それは主なる神様の愛です。今年もその神様の愛に一人ひとり守られ導かれ歩んでいきたいと思います。そして私たち自身の集いで、その愛を少しでも世界に示すことが出来ればと思います。