パトリックニュース最新号(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2019年3月17日発行 第313号

イエス様とバルティマイ
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

バルティマイの叫び声に応えて、イエス様は、立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。すると、「人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』」と続きます。


安心しなさい」という言葉は、「勇気を出す、元気を出す」という意味の動詞の命令形です。6章50節で、湖上の船で恐れる弟子たちに対する、イエス様の言葉の中で用いられています。新しい聖書では、「直訳:勇気を出しなさい」と注がついています。「立ちなさい」も命令形です。「お呼びだ」とありますが、「音、声」を意味する名詞と同じ語源の動詞で、「声を出す、大声を出す」という意味で、文字通り「声をかけて呼ぶ」という意味です。これらの言葉を言ったの「人々」と訳されています。それは、特定の主語を持たない三人称複数形だからです。つまり、イエス様とバルティマイ以外の登場人物すべてを指します。彼らの言い方にある命令形は、状況によって、お願いを意味する希求法的にも訳すことができますが、ここでは、それまでバルティマイの声を遮っていたのですから、上から目線の命令と考えられます。


声がかかったバルティマイの反応は、「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」と語られています。「上着を脱ぎ捨て」とありますが、直訳すれば、「投げ捨てる」です。なぜ上着を投げ捨てたのか。それはバルティマイの喜びを表現しているといえます。彼は「躍り上がってイエスのところに来た」からです。躍り上がるには、上着は邪魔だったのかもしれません。しかし、持ち物を捨ててイエス様の呼びかけに応えた、という意味にも受け取ることができます。上着は、「道端に座って物乞いをしていた」バルティマイにとって、大切な財産であったからです。「躍り上がって」という動詞は、直訳すれば「(に向かって)飛ぶ、飛び跳ねる」という意味です。用例は、ここの他は使徒言行録14章14節「飛び込んで行き」と16章29節「飛び込む」しかありません。


バルティマイは、重い上着(かどうかわかりませんが)それを捨てて、喜びながら、そして飛び跳ねながら、イエス様の方へむかったのです。バルティマイは、何もかも捨ててもよいほど、イエス様に会えることを喜んだのでした。


そのバルティマイに対して、「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた」と物語は続きます。ここは、直訳すると「彼(イエス)は、彼(バルティマイ)に応えて、イエスは言った」とあります。そのままの訳では、くどい表現になりますのですっきりと訳されていますが、イエス様は、バルティマイの叫びに、しっかりと答えて、声をかけたのでした。イエス様の言葉は、単純です。「何をしてほしいのか」だけです。この部分は、直訳すれば、「あなたは、わたしがあなたに、何をすることを望むか」となります。


このイエス様の言葉は、単純ですが、非常に大切なことを意味しています。バルティマイの要望を勝手に決め付けずに、彼に求めることを聞いているからです。


道端で物乞いをしている盲人、彼がおかれたその状況は、健康でしっかりとした仕事についている人から見れば、憐みの対象といえるものです。そして、憐みの対象となった時点で、バルティマイは、他の人々とは、違う存在となります。そして、彼の望みは、自分たちと同じようになることだろう、そのように思えてしまいます。目が不自由であるならば、望みはそこだろう、イエス様がもしそのような対応で奇跡を起こしたすれば、奇跡物語の出来事としての結果は同じかもしれませんが、そこに、バルティマイの苦しみを分け合い、彼とともに歩むという意味での、愛を見出すことはできません。


バリアフリーという言葉が登場して久しくなりました。それ以前は、ノーマリゼーションという言葉がありました。それらの言葉の変化には、憐みのある社会から、差別のない社会、そして共に生きる社会という視点の変化を見ることができます。社会にとって必要なことが、法や制度として整備されることは素晴らしいことです。しかし、大切なことは、一人ひとりに呼びかけることです。そして相手の声を聞くことです。ここでイエス様がなさったことは、その基本をわたしたちに示しています。そして、そもそも、わたしたちが信じている聖書の神様は、わたしたちの方が必要になった時に呼びかけるような神様ではありません。神様の方から、いつもわたしたち一人ひとりに呼びかけてくださるのです。これからも、その呼びかけに応え続けていきたいと思います。