パトリックニュース最新号(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2019年4月21日発行 第314号

信仰の基としての復活
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

何をしてほしいのか」というイエス様の問いかけに、バルティマイは、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えます。バルティマイの希望は、目が見えるようになることでした。


この部分には、「目」という単語はありません。単に「見える」という動詞があるだけです。ただこの動詞は、「上へ」または「再び」を意味する前置詞が接頭語として伴っています。それゆえ動作としては、「見上げる、再び見る」を意味します。新共同訳では、上記の通りですが、口語訳では、「見えるようになることです」、岩波訳では、「見えるように[してください]」となっています。また文語訳では、「見えんことなり」となっています。基本的に、「再び」というニュアンスを訳出していないのですが、新しい聖書協会共同訳では、「また見えるようになることです」となり、そのニュアンスを訳出しています。小さな違いですが、バルティマイが、生まれつき目が見えなかったのか、途中から見えなくなったのか、解釈が変わる場合があります。ただし、大切な点はそこではなく、続くイエス様の言葉と、バルティマイの反応です。


イエス様は、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語ります。この部分は、ほぼ原文の通りです。このイエス様の言葉がけの直後、物語の語り手は、「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」とだけ続けます。イエス様の言葉のみで奇跡が起こったのです。イエス様は、8章23節で、盲人を癒していますが、その際、「その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて」奇跡を起こされました。ここではそのような所作はなく、奇跡を起こした基は、バルティマイの信仰である、物語はそう語っているのです。ここが重要なのです。


バルティマイの反応は、「なお道を進まれるイエスに従った」ということでした。この部分は、直訳すると、「彼は、道の上の彼に従った」となり、意訳しなければ意味が通じません。ことに「道の上の」を「なお道を進まれる」とした新共同訳は、かなりの意訳ですが、意味をよく伝えています。新しい聖書協会共同訳でもこの部分は残りました。


さて、「従う」という動詞は、イエス様がペトロたちを弟子として召し出したとき、弟子たちの反応として用いられた言葉です(1:18)。それ以降いくつかの個所でも、弟子たちにも群衆たちにも用いられており(2:14、3:7、5:14、6:1、8:34等)、イエス様に従うとは、弟子であることと同じ意味といえます。


場面は、イエス様がエルサレムに入られる直前です。マルコという物語が、あえてここでバルティマイが従った、弟子となったと語っている理由は、信仰的にはイエス様から離れてしまっている弟子たちとの比較のためだと思われます。つまり、物語の中で、弟子として模範となるのは、バルティマイであるということです。ただし、バルティマイは、この部分以外一切登場しません。彼がそのあとどのような歩みをしたかは、想像すること以外ないのです。


このことから、彼は、その場では従ったかもしれないが、イエス様の十字架と復活を目撃していないので、彼の信仰は不完全であるとも言えます。確かに、弟子たちは、イエス様の十字架の前から逃げ去りましたが、復活のイエス様と出会い、再び弟子として歩み始めました。その歩みと同じではないバルティマイの信仰は、不完全ともいえます。しかし、イエス様は、バルティマイに対して、「あなたの信仰があなたを救った」と語ったのです。その言葉の意味は、あなたの信仰はまだ不完全だが、一応ここではそれがあなたを救ったということにしましょう、というような意味ではありません。救ったと宣言されたのです。そして、そもそも信仰は何かを完成する事柄ではありません。またイエス様の復活は、信仰にとって本質でありまた不可欠な要素ですが、復活を目撃し体験したことを通して、信仰が完成するのでもないのです。


ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という言葉があります。バルティマイは、自分が何を望み、何をすべきかを確信しており、それを見ないうちに確認していたのでしょう。そのような信仰であるからこそ、イエス様は彼を癒し、彼に「あなたの信仰があなたを救った」と宣言されたのだと思います。復活は、いつの時代でも、そしてどこにおいて、わたしたちにそのような奇跡を起こしてくださる出来事です。そこに本当の希望があります。今年もともに喜びをもってイエス様の復活をお祝いしたいと思います。