パトリックニュース最新号(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2019年6月23日発行 第316号

ろばに乗る姿
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

イエス様は、エルサレム入場の前に、「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい」と言われました。その言葉に続けて、「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と告げます。そして、物語は、「二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた」と続くのですが、二人の行動は、冷静に見れば窃盗に近い行動です。二人は、イエス様が前もって事情を伝えていると思ったのでしょうか。案の定、ロバの持ち主と思われる、「そこに居合わせたある人々が、『その子ろばをほどいてどうするのか』と言った」となります。しかし、「二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた」と物語は展開するのです。「イエスの言われたとおり話すと」という部分は、原文でも「イエスが言ったように」としかありません。「許してくれた」は、「送る、去らせる」という意味から、「許可する」という意味になる言葉です。「主が、ご入用で、すぐ返されるのでしたら、どうぞ、持って行ってください」と持ち主たちは判断したのでしょうか。


このやりとりは不思議ですが、あまりに不思議過ぎたのでしょうか、マタイ福音書では、「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった」として、ゼカリヤ書9章9節の引用を挿入しています。そして、「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て」と、二人が呼び止められる場面を省略しています。マルコという物語が、このロバの飼い主たちの行動に、どのような意味を持たせているかわかりません。しかし、持ち主たちは、エルサレムの近くでロバを飼っている以上、いつかはゼカリヤ書に見られる「王の入場」のようなことが起こるかもと思っていたと暗示しているのかもしれません。もちろん、単にいい人であったというだけの可能性もあります。


さて、もう一つ注目すべき言葉があります。「表通り」という言葉です。この言葉は、新約聖書ではここにしか用いられていません。「道」を意味する言葉に、「両方の、二つの」という接頭辞がついた言葉です。言葉自体の意味は、「二つの道が交わる場所、交差する場所」という意味になります。日本語では、口語訳も新共同訳も新しい聖書協会共同訳も「表通り」と訳しています。それは、場面上では「向こう側の村」にある道ですから、現代の市街地にある「~通り」と同じように、大きな通りがあり、そこにいくつかの小さな通りが交わるという意味で表通りと考えられるからです。しかし、単なる道ではなく、「両方の、二つの」という意味の接頭辞がある言葉であることに注目すると、深い意味があるとも考えられます。それは、二つの道が交わるところにいるロバということです。


イエス様は、そのロバに乗って、これからエルサレムに入場する。その姿にどのような意味を見出すのかということです。そして、そのロバに乗ったイエス様に対する見方で、その人の歩むべき道が変わる、そのような象徴的意味があるとも考えられるのです。イエス様は、ゼカリヤ書9章9節が示す柔和な王であるメシアとして、これからエルサレムに入場される。そのように見るならば、それは正しい考えです。しかし、王とは何か、メシアとは何か、それが従来通りであるならば、その正しい答えが間違った道へとつながります。なぜなら、イエス様は、ロバに乗って、十字架につながる道を、歩み始めたからです。