パトリックニュース最新号(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2019年7月21日発行 第317号

パウロの十字架と復活理解
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

前回は、イエス様がエルサレムに入場され、十字架の道を本格的に歩まれる物語でしたが、ここで、物語の流れからは少し離れますが、十字架と復活について、パウロの手紙、ことに私の理解では、マルコ福音書と同時期にかかれたと思われる、ローマの信徒への手紙 7章21―8章6節にはどのように書かれているかを見てみたいと思います。


「ローマの信徒への手紙」は、パウロ神学の核心を示し、7章は特に人間に内在する罪の問題を取り扱っているので、その要石とも言われています。同時に7章7節以下は、この手紙の中でも最も難解な個所とも言われています。


1節~6節でパウロは、結婚の比喩を用いて、キリスト者を律法に死んだ者、律法から解放されている者であるから、霊に従う新しい生き方が勧めています。そこでは、律法が完全に廃棄されたかのような説明がなされています。しかし、すぐに「律法は罪であろうか。決してそうではない」(7節)、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」(12節)と、「むさぼり」を例として律法が無ければ何が罪か分からなかったと、律法を擁護しています。パウロがこのように述べるには理由があります。一つには、パウロが、「律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ書3章6節)であったほどのユダヤ人であったことです。次に、律法の単純な否定または廃棄を主張することは、神によるイスラエルの選びと律法の授与に疑問を投げかけ、神は間違いを犯したのかという神への不信仰を表明してしまうからです。それでは神は、決して間違いを犯さないとすると、律法が今でも有効ということになり、キリストの十字架と復活の意味が薄れてしまうのです。ここにパウロのジレンマがあります。


このジレンマは、13節以下に特に顕著です。「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない」。パウロは、このジレンマを「わたし」が現在仕えている二つの法則として表現します。「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」(25節)。これは、人間には、善と悪が共存しているというイメージを想像させます。しかし、パウロがそのような人間像を持っていたとは思えません。神が人間を創造されたとき、それは「善いもの」であったからです。また、善悪の共存がキリストへの信仰で完全に打ち消されるのか否かが次のジレンマを引き起こすからです。この「わたし」をどう捉えるかが、この個所の解釈大きく作用しますが、同時に難解な個所と呼ばれる所以です。実際多数の研究があります。キリスト者となる前のパウロか、キリスト者としてのパウロなのか、それとも人間一般を示しているのか。これには、明確な答えがありません。恐らく、「わたし」であるパウロは、このジレンマに明確な答えを論理的に出せなかったと考えるのが一番良いと思います。


パウロがこのジレンマを解決したのは、唐突に現われる「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝!」という言葉です(25節)。これは明らかに論理を超えた飛躍です。しかし、この飛躍の後、パウロは、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ロマ書8章1節)と断言し、キリスト者が、罪と死の法則から解放され、肉ではなく、霊に従って歩み、命と平和にいたるのだと力説しています。それは、特祷の「わたしたちは主に拠らなければ、何一つ良いことはできません」という文言通り、パウロの歩みの基礎が、人間の論理ではなく、復活のキリストに出会うことによって引き起った信仰という飛躍によるものであることを示しています。霊の歩み、信仰の歩みの根拠も論理も人間の側にではなく、十字架のキリストによって示された神の愛にあるのです。だからこそ、パウロが、心痛めているのは、律法と肉の論理によってキリストを拒否しつづける同胞(ユダヤ人)に他ならないのです(ロマ書9章)。パウロのこの姿は、善であるかのような様々な思想が叫ばれる現在においても、私たちに何が大切かを示しています。私たちの歩みの基礎は、十字架と復活のキリストに他ならないのです。


パウロは、復活前のイエス様に出会ったことはありません。しかし、その十字架と復活の本質的意味は理解していました。しかし、そのためかパウロの十字架と復活理解は、抽象的で理解するのが少し難しいかもしれません。だからこそ、マルコの物語が書かれ、それを補っているのだと思います。