Patrick_News20160619

聖パトリック教会1957年伝道開始
2016年 6月19日発行 第283号


時代を超えて

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 イエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(8:36-37)と述べて、関係の中にある命の尊さを述べます。それは、そのような命が、この世界だけに限られるものではなく、永遠の命につながるからです。
 その命を選び求めることの大切さを述べた後、次のように続けます。「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(8:38)。この言葉にある「時代」は、「生まれ、世代、時代」を意味し、英語でいえばgenerationであり、「時代、世代」のほか、「時代の人々」のなどにも訳すことができます。イエス様はここで、その「時代」について二つの事柄を語っています。
 一つは、時代が「神に背いた」状態であることです。この言葉の本来の意味は、「姦淫の罪を犯した、淫らな」です。男女間の性的不品行のことを意味しており、マルコ福音書でのこの言葉の用例は、ここだけです。直訳すると「淫らな時代」になってしまいます(ロマ書7:3、Ⅱペテロ2:14では「姦通」と訳されている)。旧約では、この「姦淫、淫ら」という表現を、主なる神様以外の神を礼拝する譬えに用いています(ホセア書など)。そこから、ここでは「神に背いた」という神様との関係の意味にとり、そのように訳されています。つまり、単に主なる神様の言うことを聞かないのではなく、他の神々や、他の何かを神様のように信頼してしまうことを意味しているのです。
 次は時代が「罪深い」状態であることです。この言葉は、新約聖書でよく用いられる「罪」という意味の名詞と同じ語根の形容詞が用いられています。この言葉の本来の意味は、何かが欠落していること、あるいは人生の様々な選択を間違えてしまうような状態です。その意味では、先の言葉の「罪深い」状態、すなわちほかの神々を礼拝したり、神以外を信頼したりしてしまう状態を同じといえます。
 イエス様は、神様を信じることが困難な時代の中で、「わたしとわたしの言葉を恥じる者」について言及します。「恥じる」は、日本語の意味と同じですが、その対象は、「イエス様とイエス様の言葉」です。それは、イエス様の存在と教えを意味していると考えられます。つまりイエス様のすべてを恥とすることです。
 そのような人に対して、イエス様は、同じ「恥じる」という言葉を用いて、「人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」と語ります。この「人の子」はイエス様ご自身を意味しており、栄光に輝いて聖なる天使たちとともに「来るとき」は、終末時においてイエス様が再臨されるときのことを意味していると思われます。それは救いに関して決定的な瞬間だと思いますが、イエス様の言葉には、最後の審判というような厳しい響きはありません。イエス様もその人を恥ずかしいと思うという程度にとどまっているからです。それは、イエス様が来られた目的が、裁きや断罪ではなく、人々が悔い改めて福音を信じるために他ならないからでしょう。
 次にイエス様は、自分と一緒にいる人、あるいは自分を信じ、その教えに従う人々対して言及します。新共同訳では「イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(9:1)とありますが、少し意訳されています。「神の国が力にあふれて」は、単に強くなってということではなく、決定的な力をもってということを意味しています。次の「決して死なない者がいる」は、「死なない」のではなく、食べ物などを味わうことを意味する言葉から、「死を味わうことのない」人たち、言い換えれば、「死を死と感じることのない」人たちという意味です。これは、明らかに直前に述べられた「永遠の命につながる関係の中にある命」を生きる人のことを語っていると思います。
 ここにイエス様の宣教の内容が表れています。それは、死がすべての終わりではなく、永遠の命の始まりであることを教え、罪人や間違ってしまう人を救いへと導くことです。自分の死を恐れ、死から逃れようとする時、人は主なる神から離れ、また人の道の選択も誤ってしまうからです。しかし、イエス様を信じ、従う人は、死を死として受け止める必要がないので、救いの道を歩むことができるのです。
 イエス様が「この時代」と述べた「時」は、今から約二千年前です。そして語られた場所はイスラエルのガリラヤです。その時代は、今のわたしたちの時代、つまり今の日本とは、時も場所も状況も文化も異なります。しかし、人が死を迎えること、そしてそれを恐れて、道を誤ってしまうことには変化はありません。信仰を失うことや、神様ではないものを神としてしまうこともあります。その意味では、イエス様の言葉は、時代を超えた教えであると思います。それ故、今もイエス様も共に歩むとき、わたしたちには、他の何物によっても代えられない、救いと安らぎがあるのです。