Patrick_News20160918

聖パトリック教会1957年伝道開始
2016年 9月18日発行 第285号

これはわたしの愛する子。これに聞け。

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治



 イエス様が、「光り輝く服をまとう姿」に変わり、モーセとエリヤと語り合うという光景を目撃したペトロは、その会話の中に口をはさんでイエス様に語ります。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(9:3)。
 「先生」という呼びかけは、原語では「ラビ」ですが、ユダヤ教の指導者のラビというよりも、訳の通り単に先生という意味です。「仮小屋」とは、「住まい」「幕屋」などを意味し、神様が地上に一時住まわれる場所です。出エジプトの際、主なる神様は、この幕屋に住まわれモーセに指示を出しました。「主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった」(レビ1:1)等とある通りです。この仮小屋・幕屋は、エルサレム神殿の原型となる存在で、本来は、イスラエルの民とともに移動するものです。つまり神殿とは、幕屋の固定化なのです。礼拝堂正面向かって左側に、聖別されたパンを安置する箱があり、それをタバナクル(聖櫃)と呼びますが、この仮小屋・幕屋と同じ言葉です。神の臨在の幕屋から、十戒の板を収める聖櫃・契約の箱となり、エルサレムの神殿に安置され、後にユダヤ教の会堂でトーラーの巻物を安置する場所の呼び名となりました。それ等を受けて教会は、聖別されたパン・聖体や聖なるものを収める場所の呼び名として用いるようになり、現在の私たちの礼拝堂にも存在することとなりました。
 ペトロは、その幕屋を三つ建てると言いました。イエス様、モーセ、エリヤ、それぞれのためですが、ペトロがその幕屋という言葉を知らないで使ったわけではありません。仮小屋を三つ建てるという表現は、言い換えれば、神殿を三つ建てる、臨在の幕屋を三つ建てると同じことです。完全に間違っています。物語の語り手も、淡々と、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」(9:6)と伝えています。
 写真もない時代に、なぜペトロがモーセとエリヤとをそれと認識したかはわかりません。しかし、彼は、自分が師として従ってきたイエス様が、語り伝えられた聖書で偉大な働きをした、あのモーセとエリヤと肩を並べている光景を見て、喜びと感動を得たことは確かでしょう。しかし、それが、イエス様も同じような働きをなさるという理解につながるのであれば、それは間違いでした。
 イエス様は、イスラエルの人々を導くのですが、それはモーセがエジプトの軍勢を海で全滅させるような方法ではないからです。またイエス様は、誤った信仰の在り方を、特に間違った律法解釈を厳しく批判しますが、それはエリヤのように、バアルの預言者450人を全滅さえるような対決の仕方ではないからです。
 不思議な光景の前で、一種理解不能になってしまったペトロと弟子たちに対して、「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け」」(9:7)と続きます。この声は、イエス様が洗礼を受けられた際の、「すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」(1:11)という部分と、全く同じではありませんが、似た響きがあります。イエス様を愛する子と呼んでいるからです。物語の登場人物である弟子たちは、イエス様の洗礼の際の出来事を目撃していませんので、これらの声が似ていると気が付きません。しかし読者は知っています。つまり、読者は、もし弟子たちと同じ視点でイエス様について理解していたとするならば、この場面ぐらいから視点を変えらえるように促されているのです。弟子たちの誤解は、これ以後深まっていくからです。
 語り手は、「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(9:8)と続けます。その描写は、弟子たちが目撃した出来事を理解できなかったこと、聞いた言葉を理解できなかったことを伺わせます。ただし、イエス様が、弟子たちに大切な示唆を与えます。「一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた」(9:9)とあるからです。目撃し不思議な光景を語り伝えれば伝えるほど、イエス様に対する誤解が多くの人に広まるからでしょう。しかし、弟子たちの反応は、「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」(9:10)というものでした。論じ合うだけで無理解は続くのです。
 弟子たちが復活という言葉を聞くのは、ここが初めてではありません。直前に「人の子は~~排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(8:31)とイエス様から聞いています。復活をすぐに理解できないのは当然です。だからこそそこからどう歩むかが課題となります。弟子たちの選択は、復活については触れないようにしながら、イエス様に従っていくということでした。それは、より誤解を深め、最終的にイエス様を裏切る原因となるのですが、神様は、それを承知で、「これはわたしの愛する子。これに聞け」とイエス様を通して声を響かせるのです。それは弟子たちも読者も、たとえ理解を超えることに出会ったとしても、また間違い迷ったとしても、イエス様に聞き従うことを通して、必ず道が開けると語っていることに他なりません。