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【巻頭言】(加藤司祭)
前二号に引き続き今回も全生園のこと、特に聖フランシス・聖エリザベツ礼拝堂の信徒の方々
のことについてお話いたします。
礼拝堂の信徒の方々との交わりを通して私が痛感したことの一つは、とにかく礼を重んずると
いうことです。礼拝堂に何かの関わりを持った人に対して必ず返事を怠りません。礼拝堂に献
金を戴いた方、訪問してくれた方、便りをよこしてくれた方、奉仕をしてくれた方などに対して、
一人一人丁寧にお礼の手紙を不自由な手を駆使しつつも小まめに送ります。また音沙汰がな
くなった方々にもクリスマス、元旦、イースターなど折に触れて、また海外の縁者に対しても、た
びたび便りを出します。当たり前と言えば当たり前なことなのでしょうが、そのごく当たり前のこ
とを当たり前として行うところに本当に頭が下がりました。恐らくこれほど懇切丁寧かつ完璧な
までに返答を返す方々に私は今まで出会ったことがないと言っても過言ではないと思います。
このような姿勢には単に性格や年齢を超えたものを感じます。これほどまでに礼儀を尽くすの
も、人々からはじかれ嫌われてきた過去を持つ全生園の方々にとって、人とのつながりという
ものがいかに大切で欠かすことができないものであるのかを身をもって経験し知っているから
なのだと思いました。
全生園に聖公会の会衆が出き礼拝を守るようになって五十余年が経ちますが、草創期の礼拝
堂を支えてくださった人たちの中に聖オルバン教会の婦人会があったそうです。当時はまだ社
会からの差別や偏見が厳しく、東京の教会も全生園の会衆にほとんど見向きもしなかった中
で、オルバン教会に属する欧米の信徒の方々は物心両面で様々な援助をしてくださったそうで
す。その中のあるアメリカ人のご婦人と数年前礼拝堂の信徒の方々が三十年ぶり位に再会を
果たしました。その時私は始めて礼拝堂の信徒の方が涙を流すのを目の当たりにしました。そ
して「会いたかった、会いたかった」と何度も感激を口にするのを聞きました。数十年経っても
礼拝堂の人たちは、そのご婦人がかつて誰も関わってくれる人がいなかった中で自分たちを
訪ね援助してくれたことを忘れることがなく、また再び会える希望を持ち続けていたということで
す。ありそうな話と言えばありそうな話なのでしょうが、礼を重んずると共に人の恩も決して忘
れることのない姿に思わず涙がそそられました。
その他に私が思い出すこととして、全生園に勤務し始めて数年後、私の良く知る若い女性が自
殺をした時のことがあります。その時礼拝堂の方にその話をしたところ、「色々苦しいこともあ
ったのだろうけれども死んだらダメだよ。ましてやまだ若かったんだから絶対に死んだらいか
ん」と本当にその女性を惜しむように残念そうに語っていました。私はそれを聞いて、その言葉
には自殺に対する一般的な考えからではなく、ハンセン病元患者としての自らの人生を省みた
上で絞り出てくるような実感から発せられる説得力を感じました。そしてそれ以後、もし自死を
考えるような人に私が出会ったら、是非全生園の礼拝堂に通うことを勧めようと思いました。あ
そこには、自死に走ろうとすることを思いを止めさせるような、生きていくことを励ます力が渦巻
いているように感じました。
そのような力の源なのか、礼拝堂の人たちは何しろ楽しいことを求めます。信徒ですから礼
拝したり様々な教会奉仕も当然行っていますが、それと共に、またそれ以上に、一緒に食べた
り、飲んだり、カラオケをしたり、遊んだりと、とにかく皆で楽しく過せることを欲します。そのよう
な宴席には私にもお呼びがかかり、ほとんど出席して一緒に楽しみ、いわば肝臓と胃袋でもっ
て牧会していたと言えるほどでした。このように楽しさを求める背景には、食べたくとも食材を
選べない、遊びたくとも園外に出られないという、苦しく不自由な過去をかかえてきたことへの
反動にも感じられますが、それよりも人が楽しく生きるという当たり前のことを只単に謳歌して
いるように感じられました。
また礼拝堂の人たちは何しろ人が良いのです。園外からやってくる豆腐屋さんや花屋さん
に、折角来てくれて買わないのでは気の毒だからと、何丁も何鉢も品物を買った話を聞いたこ
とがあります。礼拝堂の修理のために来てくれた左官屋さんに「ご苦労さんねー、自由に飲ん
でいいからねー」と飲み物を冷蔵庫一杯に保存しておいたり、床を張替えにきた大工さんのた
めに朝早くから礼拝堂の室内をギンギンに冷やしておいてあげたり、当然と言えば当然なのか
もしれませんが、とにかく優しくて人が良いのです。このようなことも、礼拝堂の人たちが人との
関係の中で排斥され痛めつけられた経験をしてきた中で、辛さや苦しさを知っているが故の裏
返しとして現われているのかもしれません。
このようにして全生園の人たちとかかわる中で、本来的な人の姿や生きる姿勢に気づかされ
たような気がします。それは、私たちが何か忘れ去ってしまったような、あるいは忙しさや欲望
や地位などによって見えなくされてしまったような、それでいてとても大切なものだと感じます。
礼を重んじ、恩を忘れず、命を絶たず、人に優しく、そして楽しさを求めて生きていく姿は、人と
してごくありふれた普通の生き様なのだと思います。そのような極めて単純なことに気づかせて
くれるのが全生園というところです。
これまで「まじわり」紙上で三回にかけて全生園のことを書かせていただきました。私の全生
園とのかかわりの中でお伝えできることは、偏見や差別に出会っている人たちには神様から
の特別な宝物が授けられているように感じます。その貴重な宝物が与えられている人たちを、
特殊化したり道具化したりすることなく、その方々と具体的なそして継続的な交わりを、すなわ
ち一緒に過せるときを持つことが最も大切なのだと思います。その中から私たちは様々なこと
に気付かされていきます。そしてそのような人たちは何も全生園に行かなくとも、ごくごく身近な
ところに、関心を寄せさえすれば自ずと出会うことができる筈です。
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