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聖パトリック教会1957年伝道開始
2010年6月20日発行 第217号
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治
私たちは聖餐式の中で、「世の罪を除く神の小羊よ、憐れみをお与えください」と唱えます。この言葉は、
祈祷書の中の言葉ですが、ヨハネ福音書の物語に起源があります(1:19-51)。
物語はイエスについて証ししているバプテスマのヨハネのもとへ、エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ
人たちを遣わして質問するところから始まります。「あなたは、どなたですか」との質問に、ヨハネは、「わ
たしはメシアではない」と答えます。「どなたですか」と聞かれているのに、答えが少しずれています。さら
にヨハネは、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」とも付け
加えています。これらのヨハネの少し焦点のずれた答えは、自分が誰であるかを明らかにすることが重要では
なく、自分の存在意義はイエス様が誰であるかを証しすることに他ならないと、その役割に徹しているところ
から来ています。しかし、この時まだヨハネは、イエスに出会ってはいませんでした。その翌日、ヨハネは初
めてイエスが自分のほうへ来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言葉を発するので
す。初めて会うイエスをどうやってイエスだと分かったのか、それは聖霊がイエスに下るのを見たからだと物
語は記しています。しかし、急に何の前触れもなく、「世の罪を除く神の小羊」という細かい説明をどうやっ
て理解したのかは、謎のままです。
さらに次の日、ヨハネと彼の二人の弟子たちは、イエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と類似する言葉を発し
ます。ヨハネの弟子たち、告白するだけではなく、イエスに従っていきます。「従っていく」ということは、
単に後をつけるだけではなく、彼らがヨハネの弟子から、イエスの弟子になったことを象徴しています。ヨハ
ネは自分の弟子たちがするままにさせておきます。彼らは、イエスの泊まっておられる所を見ます。なんとも
面白い表現ですが、それはユダヤ教の師弟関係が、単に勉強だけではなく、師との親しい生活から教えを学ぶ
ということが反映しているからです。また二人の弟子のひとりのアンデレは、その兄シモンにメシアに「出会
った」と語ります。そこからさらに物語が展開していくのです。
さらに次のナタナエルの物語では、ナタナエルは自分の持つ知識から考えてナザレから良い者が出るはずもな
いと考えていたのですが、イエスの方が、すでにナタナエルがいちじくの木の下にいる彼を見たとナタナエル
に告げ、彼は自分の知識を超えて「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と答えます。
これらの物語の中で、「見る」という言葉が重要な機能を持っています。そしてそれはイエス様と私たちとの
関係について大切な示唆を与えています。バプテスマのヨハネは、イエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く
神の小羊だ」と語り、イエス様が誰であるかを明らかにしました。弟子たちもイエス様を見て「見よ、神の小
羊」と語り、イエス様に従っていきました。ナタナエルは、イエス様に見られることによって、イエス様につ
いて自分の知識を超えて理解することができました。これらのことから分かると通り、私たちはイエス様を見
ることによって理解し、深い交わりに入り、また私たちが見るだけではなく、イエス様によって見られること
によってもより深い理解へと結びつくとこれらの物語は語っているのです。
私たちは、ヨハネとその弟子たちのように、直接イエスに出会うことはありません。しかし、聖餐式とは、
今も生きておられるイエス様が、私たちが行う礼拝という時間と空間に共にいてくださることを認識する時で
す。そのことを深く味わいながら、私たちも「世の罪を除く神の小羊よ」という言葉を語りたいと思います。
またこれらの物語に出てくる登場人物たちはみなイエスの前に謙虚でした。ヨハネは自分の弟子たちが彼に従
っていくのを見送りながら、徹底して自分の働きに謙虚でした、ナタナエルも、自分の持つ知識を超えて、今
目前にいるイエス様を謙虚に理解しました。イエス様の前では私たちは謙虚にされる。そこから本当に私たち
の深い理解と歩みが始まると思います。そのことも含めて「憐れみをお与えください」という言葉も、礼拝の
中で共に発したいと思います。
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