まじわり125号

【巻頭言】(加藤司祭)

 東京都東村山市内に国立療養所多磨全生園というハンセン病の療養所があります。私はそ

の中にある聖フランシス聖エリザベツ礼拝堂のチャプレンとして一九九三年以来十年七ヶ月の

間、園内の信徒と共に信仰生活を送ってきました。今私はその地を離れ、この期間に経験した

ことや教えられたことを今後赴任する教会で語り継いでいく必要があると思い、まずは皆様に

この紙面を通してお伝え致します。

ハンセン病はその昔「らい」と呼ばれ、感染した人々やその家族は周囲から嫌われ社会から

ははじかれ、偏見と差別を背負わされてきました。このような過去を切り捨て、正しい認識を持

って欲しいという願いから、らい菌の発見者であるハンセン博士の名を取ってハンセン病という

呼称を現在では使うようになりました。園内の方が自らの病を「本病」と呼んでいるのも、この

ような歴史によるものだと思います。以前この「らい」という名称は聖書の中にも記されていまし

たが、一九九六年の「らい予防法」廃止を機に、また聖書時代の研究成果に基づき日本聖書

協会は「重い皮膚病」と改訳しました。これらのことも、聖書がこの名称を使うことによりいわれ

なき偏見、差別を助長してきたという反省からだと思います。この改訳に対して全生園の信徒

の方には、それでも何故「重い」とわざわざ言わなければならないのかという疑問を持っている

方もいます。一つの病名により、それに基づくレッテルが貼られ、そのレッテルによって人々か

ら排除され、親や兄弟姉妹や我が子や故郷とも関係を断ち切らざるを得なくされ、命をも断た

される人生を辿ってきた方々が、押された烙印を正すために病名を改めて欲しいと願う思いは

当然であろうと思います。

ハンセン病は極めて弱い感染力の菌による伝染病で決して遺伝病ではありません。現在日本

ではほとんど新発(新しく発症)する患者はなく、一九四一年にプロミンという治療薬がアメリカ

で使用されて以来ハンセン病は治る病気であることが実証されました。しかし、日本ではこの

病が天刑病とか不治の病と考えられてきたために治療することに重点が置かれず、病者を強

制隔離し、また子孫を残さないようにさせ、死ぬのを待って撲滅するという対策が取られ、せい

ぜい大風子油を注射する程度の施療がなされていました。従って、なかなかプロミン投与によ

る治療には至らず、また自費で購入し続けることも経済的に不可能に近く、入園者自身が獲

得のための国費予算を要求するハンストや厚生省への座り込みの運動を行い、一九四九年

にようやく薬を手にすることができるようになりました。ある女性の方はプロミンによって見る見

る病気が騒がなく(治るということ)なっていったこと、もっと早くにプロミンを打っていればこんな

に(眉毛の脱毛)ならずにすんでいたことを話されました。また、ある方はプロミン獲得の以前

に治りたい一心で大風子油を目に注射し、ものすごく痛い思いをしながらも結果的に片方の目

を失明したことを教えてくれました。

多磨全生園は一九○九年に府県立の全生病院として開設され四一年に国立になりました。こ

の「全生園」という名称にハンセン病に対する強制収容隔離撲滅という当時の政策の中身が

表されています。すなわち、ハンセン病を病んだ人はこの園の中だけで人生を全うしろというこ

とです。園の周りには現在一メートル位の高さの柊の低木が植えられていますが、当時は三メ

ートル位の高さがあり、その内側には深い濠が掘られ外界への逃走が防止されていました。

逃走した人が捕まると、今はその姿はなくなりましたが園内にあった監獄へ入れられました。

その事実はハンセン病への対策である強制収容という言葉と共に、ハンセン病者がまさに罪

を犯して収容所に送られる囚人として扱われていたことを物語っています。ある信徒の方は、

国外の従軍先で患い帰国させられ軍の病院でハンセン病と診断され、その後一両貸し切り状

態の電車の車両に自分一人だけが乗せられトイレにも行かせてもらえず園に到着し、その間

数ヶ月の間お風呂に入れてもらえなかったこと、また自分は園内の監獄には入れられなかっ

たけれども友達が入れられてその人のためにこっそりと差し入れを持って行ったことを語ってく

れました。またある信徒の方はいきなり家に警官が現れて警察署に連れて行かれ、そこから

手錠をはめられて療養所まで連れて行かれたこと、警察署に飛んできたお母さんを前に警官

に何度も手錠をはずしてくれるように頼んだけれどもはずしてもらえなかったことを語ってくれま

した。

通常、病気にかかれば自ら病院に行き医師の診察を受けた上で六人部屋等の病室に入院し

薬や施療を受けつつ病を治すというのが病者が受ける治療の道筋です。しかしハンセン病の

場合は当初から治療の対象とはされず病人どころか人間扱いをされてきませんでした。それ

は、強制的に療養所に刈り込まれ、一端収容されれば死ぬまで出ることが許されず、そこでは

満足な医療も看護も介護も施されず、比較的健康な病者は八〜九人で十二畳半の畳部屋で

雑居生活を強いられ、病者として静かな療養生活を送れるどころか園内の様々な作業に従事

せざるを得ず、医療や生活環境の改善は病者自身が断食などの我が身を切る行動をもってし

か要求できる方法を見いだせず、また出産予防対策として断種が行われ、あるいは出産後確

かに泣いていた我が子の声がいつの間にか聞こえなくなったこと等に表されています。このよ

うな事実の背景には、当時日本が近代国家建設という標語のもと富国強兵政策を取っていた

中で赤子や優性思想という考えから、国内の負の部分は世の中から隠し見せないようにし、国

家として価値のない役立たない者は切り捨てるという判断が厳然と支配していたと言うことが

出来ます。(つづく)

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