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聖パトリック教会1957年伝道開始
2006年3月19日発行 第170号
牧師 司祭 ミカエル 加藤俊彦
聖公会神学院を卒業し、最初に勤務を命じられた教会は牛込聖公会聖バルナバ教会と目
白聖公会でした。勤務体形は聖バルナバ教会に住みつつ、同教会の管理をしていた目白
聖公会の牧師の指導のもと両教会で働くというものでした。具体的には月の1主日と週
3日を目白で、残りの主日と週3日をバルナバで勤務し、週1日を休みとするものでし
た。このような勤務体形は教区でも珍しい形でしたが、一つの教会の敷地の中に指導司
祭と四六時中一緒に生活し、監視されているような形よりは、ずっと解放感があり、あ
りがたいものでした。また、2つの教会を1人の司祭と1人の伝道師で協力して牧会し
ていくあり方は、ある意味画期的で、その後の現職司祭が減少していく教区の将来を見
据えた姿でもありました。
当時のバルナバ教会は現在の聖公会センターが建ち上がる前の木造平屋の一軒家でし
た。礼拝堂は20畳の畳敷きで、襖を開けると祭壇がおめみえし、閉めると集会所に早
代わりする大変便利な仕様でした。台所とトイレは共用で、私物が置ける私的なスペー
スは4畳半ほどの部屋で、日曜日には子どもたちの遊び場になっていました。かつて
は、この教会にご夫婦で暮らしていた聖職者のことを思うと、バルナバに限らず、昔の
教会の現実は、これが普通であったのだろうと思います。
神学校を卒業したものの、教役者としての働きが右も左も分からない状態であった私
は、指導司祭と共に過した日々が何よりも、その後の自己形成に役立ちました。主日は
ともかくとしても、週日教役者は一体何をしているのかが、それまでの私には皆目見当
がつきませんでした。一日の始まりは、教会のゴミ出しをし、道路や境内地の掃き掃除
をし、早祷を守ることでした。また指導司祭と一緒に車で病床にお祈りに行ったり、気
になる信徒を訪問したり、バザーの品物を取りに行ったり、また教会にお金や食事をい
ただきに来る人への対応をしたり、蚊取り線香をぶら下げながら雑草を抜いたり、聖書
研究の準備をしたり、集会のためにお湯を沸かしておいたり、郵送物に手書きで宛名を
書いたり、記念切手を貼って送ったり、自転車で近隣の家に郵送物を配って回ったり、
現在私が教会で行っていることの大半は、その当時に指導司祭から教わったことと言え
ます。また葬儀での棺の置き方や司式者の立ち居地や香の振り方、葬儀社への対応、ま
た納骨式の仕方、結婚式の仕方、あるいはイエス様の降誕や十字架上の死の場面を聖書
箇所で読むときにはその瞬間に頭を垂れることなども同様です。
もう一つ私の教役者としての自己形成に大きな影響を与えたのが、毎週木曜日に聖三一
教会に通い、当時の若い教役者3人が集まって英語の文献を読みながら、牧師から礼拝
についての学びを得たことです。礼拝について学ぶことは、礼拝で用いる祈祷書やそこ
に表わされているキリスト教の教義のこと、礼拝で使用する礼拝堂や礼拝を行っている
教会のこと、また礼拝を司る聖職者やそこで行う説教のこと、あるいは礼拝を行ってき
た教会の歴史などを同時に学ぶことにつながりました。つまり、礼拝を学ぶことによっ
て、教会のあらゆる領域のことについて学ぶことができました。そして聖餐式の司式の
仕方も、この牧師から教わりました。要するに、教会における実践的な学びは指導司祭
から、そして教会にまつわる神学的な学びは聖三一教会の牧師から教わったことにな
り、それらが、教会で働き始めた私にとって、何よりの財産となりました。
聖バルナバ教会での貴重な体験として教会建築に携わったことが挙げられます。聖職者
が教会に赴任する中で、礼拝堂の建築に関わることができるのは、70歳の退職を迎え
るまでに、1回あるかないかのことだと言えます。それほど数少ない機会を、私は今ま
で2回経験できました。礼拝堂の建築には、もろにその教会の、そして牧師の信仰が目
に見える形で表わされます。また多くの信徒の意見を集約しつつ1つのものにまとめて
いく作業は、教会の分裂を招き、牧師と信徒との関係を損ないかねないほどに並大抵な
ことではありません。聖バルナバ教会のときは伝道師あるいは執事として、教会の責任
者という立場ではなかったものの、このような貴重で、しかも難しい建築事業に関わる
ことができたことは、何よりのお恵みでした。そして建築中は、4畳半一間のアパート
に暮らし、押入れを机代わりに、家財道具に囲まれて寝食をしたことが何よりの思い出
となりました。
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