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【巻頭言】(加藤司祭)
次に引き続いて旧約聖書の創世記2章を読んでみましょう。ここにも神様が人を創造した様子
が書いてあります。「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人
はこうして生きる者となった。」(6節)この一文には、人がもともと土の塵から神様によって造ら
れたとあります。牧師をしていると人間の死に出くわす機会に度々出会います。お葬式が終わ
り火葬場に行き、荼毘に付すとき、棺に入れられたご遺体はまだ生前の姿を留めています。し
かしご遺体を炉の中に入れ、1時間位して出てきた姿は骨に変わっています。何回この経験を
しても、この出来事を不思議で畏れ多く感じます。そしてこの聖書に書かれていることは確かだ
と実感します。私たちすべてのどのような人も所詮もともとは塵か骨にしか過ぎないということで
す。そこに神様の働きがあったからこそ姿形が与えられ、また命の息を吹き入れられたからこ
そ初めて生きることができたのです。私たちの命も肉体も能力もすべて神様に依存していると
いうことです。もしそうでないとすれば、骨になってしまうことを人はその努力や知識を駆使して
止めることができますか?ずっと今のままの姿であり続けることができますか?できないとすれ
ば、骨になってしまうことをどのように説明するのですか?神様のお蔭でないとすれば、それを
何と表現するのですか?
結局この聖書の一文は、「あなたは何ですか?」という質問に対する応えと言えます。いずれ自
分も必ず骨や塵になります。それ故に私たちはこの質問を自分自身の事柄として受け止め、解
答すべきであろうと思います。しかし、このようなことを考えることは実際に生きて行く上では、
どうでもよいことと言えるかもしれません。このような難しいことをしゃっちょこばって考えなくても
事実生きていけるでしょう。しかし、どうでもいいこと、また難しいから考えないということは、自
分自身を、あるいは自分自身の人生をどうでもいいものと考えていることになるのではないで
すか?自分自身の根本的な問題を棚上げにして、また必ず自分自身に降りかかってくる問題
を先送りして、見て見ぬふりをしながら生きていることにならないですか?そのような姿勢で唯
一回限りの繰り返しのきかない人生を生きていって良いのですか?少なくとも聖書は、この問
題に対して、神様があなたの鼻に命の息を吹き入れたから、あなたは生きる者となったのでは
ないですか、また今も吹き入れているからこそあなたは生きていることができているのではない
ですか、と応えつつ、私たちに問うています。この問いに対して応えようとしているのは何もキリ
スト教だけではありません。大切なことは、自分はこの問いに対してどのように応えるのかとい
う姿勢を持ち続けることです。そして、クリスチャンになるということは、このような聖書の応えに
対して「自分はその応えの方向で生きていこうと思います」と言うことです。
神様は土の塵で人を形づくった後、人をエデンの園に住まわせました。そして神様はそこに食
べるに良いものをもたらす木と命の木と善悪の知識の木を生えいでさせました。しかし神様は
一つだけ人に命じました。それは善悪の知識の木の実を食べると死んでしまうから、決して食
べてはならないというものでした。
この話に対して、神様はなぜ食べたら死ぬと分かっている実がなる木を生えさせたのかという
疑問、つまり神様が愛なる神様であれば人が死に至らないように初めからその原因となるよう
な木を生えさせなければ良かったではないかという疑問が湧いてきます。そこから、神様は人
を試すようなこと、あるいは試練に遭わせるようなことをする方なのかという問いも出てきます。
これに対しての応えは聖書の読み方にあると思います。
旧約聖書にしても新約聖書にしても、そこには歴史上の客観的事実が書いてあるのではなく、
歴史上の事実を信仰の視点から捉えた真実が書かれています。つまり聖書は、神様が人をエ
デンの園に置き、そこに善悪の知識の木を生えさせ、そのとき人にその実を食べるなと命じた、
という歴史的事実があったことを語っているのではありません。この後に続くアダムとエバによ
る陥罪物語との関連の中で、人が死ぬという事実に対して信仰の視点で捉えた真実を聖書は
語ろうとしている訳です。つまり、人間の死が歴史的事実としてまず目の前にあり、その事実を
どのように受け止めていったら良いかという葛藤が人々の間に生まれ、そのことを神様との関
係の中で、つまり信仰の視点で捉えたときに、神様の命令を人が聞き入れず反する行いをした
から死が現実としてあると解き、その解釈を的確に表すために、そのように信じた人たちが、こ
のような書き方を用いて聖書に留めたということです。
聖書を歴史的事実として捉えて読めば、神様はなぜ善悪の知識の木を置いたのかという疑問
や問いが出てくる訳ですが、その読み方では、聖書が整合性も論理的展開もない、それ故に説
得力を持たないつまらない本としか捉えられないと思います。しかし聖書には信じた人たちの真
実が書かれていると捉えて読めば、真実は何かを解き明かそう、また一体何をどのように信じ
たのかを聞き届けよう、そして神様が何を言いたいのかに耳をすまそうという姿勢に導かれま
す。聖書を読むことは謎を解くことです。謎を解く鍵を探し、それを使って絡み合った謎を丹念に
紐解いていった末に真実が浮き出てくるようなものです。
(つづく)
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