パトリックニュース166号

聖パトリック教会1957年伝道開始
2005年11月20日発行 第166号

これからもよろしく(その7)

牧師 司祭 ミカエル 加藤俊彦

聖公会神学院在学中の3年間で、私が今でも覚えていることを3つほどご紹介します。

私が2年生の時、神学生たちがある教授の家に夕食に招かれました。テーブルには教授の手

料理の品が並べられ会食は和やかに進んでいました。食事の話題が教会の事や神学に傾い

ていった頃、ある一人の神学生の発言に対して、日頃から冷静で顔色一つ変えない教授が

「信徒をばかにするんじゃない!」と息を荒げて感情的に怒号を発しました。たちまちその場は

真っ白になり、その神学生は泣き出し、誰も何の言葉も発することが出来ないほどの気まずい

雰囲気となり、教授はその場を立ち去りました。この状況を打開しようと誰かが口を開こうとし

ても、それが誰にも出来ないほどに、一括した言葉には重みがあり、またその声には霊的な力

があり、そして神学生の心には驚きが渦巻いていました。この重苦しい場面でご伴侶が助け舟

を出して下さいました。持ち前の明るさと感受性で「どこか虫の居所でも悪かったんじゃない。

それにしてもここ最近あんなに怒ったのは見たことがないわ。あなたたち貴重よ」と語って空気

を和らげて下さいました。教授が言いたかったことは、神学生が聖職者となっていく過程の中

で高慢になるなと言うことです。聖職者は神学校で聖書や神学を勉強し知識が増し加わると、

知的に人間や物事を解釈したり分析したり、またそれをひけらかすようになったり、あるいは周

囲からは先生先生と呼ばれ自然に立場が上がったような錯覚に陥り、知らず知らずの内に自

らを見失いがちになります。そのような姿勢が信徒を見下し、その言動を無知蒙昧なごとくに

捉えるような言葉や態度として表われてきます。教授はその姿を神学生に感じ、戒めたのが、

この怒りの言葉であったのだと思います。

もう一つ私が覚えている事は、同じ2年生の時のある授業での言葉です。ゼミ形式で行われて

いた授業で、ある神学生が予め割り当てられていた課題に対して発表を行いました。一通りの

発表が終わったところで、その教授が「それは辞書に書いてある事で、君はどう思うのか?」と

問いただし、「辞書に書いてある事は、それを書いた人が考えた事であって、必ずしも辞書に

書いてある事が正しいという訳ではない」と加えました。教授が語りたかった事は、辞書に書か

れている事にしろ、権威者が語った言葉にしろ、あるいは今まで教会の中で常識と思われてい

た事にしろ、伝統的と考え誰も不思議に思わなかったような事にしろ、それらはすべて他者の

考えでって、それに対して自分はどのように思い、考えるのかという姿勢を大切にするようにと

いう事です。そしてそのために、常にあらゆる事柄に対して「どうして?」「何故?」と批判的精

神を持ち続け、その度に自分の意見や考えを確立していく事、それが"神学する"という事であ

り、聖職者にとっては欠かす事のできない態度なのだ、ということだと思います。

最後は聖路加国際病院での臨床牧会訓練で、ある病室に行った際にそこの患者さんが私に

「入院していて一番安心できる人は掃除に来てくれる人だね」と語った言葉です。その方曰く、

病室に来る人の中で、お医者さんには治してもらっているという負い目があり、看護師さんには

お世話してもらっているという負い目があり、家族や職場の人には迷惑をかけているという負

い目があり、ゴミ箱のゴミを捨て病室を掃除しに来てくれる人が一番安心できる、と正直な感想

を伝えて下さいました。病気になり入院した事によって色々な人に迷惑をかけているという思い

にさいなまれる病者にとって、病室で自らの負い目を解かれて一番心安らげる人は、もしかし

たら全くの他人なのかもしれません。そもそも病室に訪れる人とは当事者の関係者しかいない

という中で、聖職者はある意味赤の他人として、病者にとって意味のある位置を占める事がで

きる存在なのかもしれないと、その言葉を通して感じました。

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