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復活節第6主日
今日の福音書はヨハネによる福音書15章1節から8節でした。先週に引続きイエス様の告別説教のところから選ばれ
ています。この場面は、イエス様が十字架につけられて殺される前の晩に弟子たちと共に食事をした、いわゆる最後の
晩餐の席上でのことです。そして、明日には殺され、もう弟子たちと一緒にいることができなくなってしまうという緊迫し
た状況の中で、イエス様が残される弟子たちに対して語った、いわば遺言と言えます。その内容は、取り残される弟子
たちの不安を取り除くことにあったと言えます。教会の暦は、今週の木曜日に昇天日を迎えます。イエス様が天に昇り
イエス様との別れを迎えようとしている、この期節に、わたしたちは弟子たちとの別れを前に、最後の晩餐の席におい
て話されたイエス様の告別説教から福音を聞くようにと招かれています。
さて、ヨハネ福音書の中には、イエス様ご自身が「わたしは何々である」と言って、人びとに自分が誰であるのかという
ことを言い表している部分が数多くあります。先週の福音書には「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言って
いる箇所がありました。また先々週の福音書には、「わたしは羊の門である。」と言っているところがありました。今日の
福音書には、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」あるいは「わたしはぶどうの木、あなたがたは
その枝である」という箇所がありました。特に、今日の箇所においてイエス様は、自分と弟子たちとの関係を「つながる」
という言葉によって語り、そこから弟子たちが、つまりわたしたちが何を大切にして生きていったらよいのかを表そうとし
ました。
日本語の宗教という言葉は、英語のReligionを邦訳したものです。英語のReligionはラテン語のReligioから派生しまし
た。ラテン語のReligioは「再び結びつける」という意味の単語が合成された言葉です。つまり、宗教とは「神様と人びとと
を再び結びつけること」と解釈されていると言えます。この合成語から連想すると、本来神様と人びととは結びついてい
たけれども、何らかの理由によりその結びつきが断たれ、それを再結成すべく宗教が生まれたと捉えているようです。
このような連想は、キリスト教の教えに当てはめることができると思います。天地創造のとき神様は人を造りました。そ
の際、人を神の形にかたどり、神に似せて人を造りました。つまり、神は人を神と一致したものとして創造しました。神と
人とは本来結びついたものとしてあったということです。また、神は人が独りでいるのは良くないと考え、人を深い眠りに
落とし、あばら骨の一部を抜き取り、その骨でもう一人の人を造りました。神が新たに創造した人を既に創造した人の
ところに連れてくると、人は「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉」と、その喜びを語りました。つまり、
神は、人と人とが一体であるものとして創造したということです。人と人も本来は結びついていたものとしてあった訳で
す。しかし、その後、人は罪に陥りました。この出来事により、人は神を無視し、自らを神の位置に置くことへと誘われ
ました。いわば、人の中に自己中心性が芽生えてきた訳です。このことにより、人と神様との、また人と人との結びつき
が切れてしまいました。これら一連の人に対する洞察は、苦難や喜び、不安や恐れ、繁栄や衰退を歴史の中で経験し
てきたイスラエルの民が生み出したものです。つまり、憂いや涙や笑いを含む悲喜こもごもがある現実の生活の中から
生み出された人間観であり神観と言えます。決して、どこかの、誰かが、あるとき思索の上に考え出したものではありま
せん。人びとが自己中心的に生き、神と人、人と人との結びつきがないがしろにされている姿に、人間の不幸の原因を
見、このような洞察を生み出しました。それゆえ、それぞれとの結びつきを再結成すべく預言者が歴史の中に現われま
した。そして、最後にイエス様が現われ、十字架と復活を通して、それぞれの結びつきを成し遂げました。宗教とは「神
様と人びととを再び結びつけること」との意味合いを持つラテン語のReligioには、キリスト教の背景があるように思えま
す。つまり、再び結びつけた人こそイエス・キリストであり、Religioすなわち宗教とは、まさにキリスト教のことであると言
っているように思えます。
さて、今日の福音書でイエス様は自らを「まことのぶどうの木」に、弟子たちを「その枝」になぞらえています。そこで
は、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながってい
れば、その人は豊かに実を結ぶ。」と語られているように、ぶどうの木であるイエス様と枝である弟子たち、あるいはわ
たしたちとのつながりが強調されています。まさに、結びつきの大切さが語られています。枝は幹とのつながりなくして
は存在することができません。幹から枝に栄養や水分が行きわたることによって、枝は命を持続することができ、その
ことによって枝に花や実をつけることができます。幹から離れてしまえば、即枯れてしまいます。枝自身には生きていく
ための力や命そのものをも備わってはいないということです。そもそも、枝には幹につながっていようとする意思もあり
ません。枝は幹から派生したものにすぎず、枝自身が幹とは別に存在できるものではありません。
イエス様がわたしたちを枝になぞらえたのは、このような枝の性質がわたしたち人間の本来的な、また根本的なあり
様を端的に、そして的確に教えているからなのだと思います。つまり、人は本来神様や人びととの結びつきなしには存
在し得ないものだということです。どのような人であれ、すなわち定まった宗教を奉じている人であれ、無神論を標榜す
る人であれ、神様や人びととの結びつきに無関心を装う人であれ、また人の意識・無意識に関係なく、人とは本来神様
と人びとに結びついているものであり、そのようにして生きているし、生きていけるものであるということです。ゆえに、人
は生きていくために必要なものを自らの内に何も持ち合わせる必要がありませんし、枝に過ぎない人は、そもそも持と
うと思うこと自体できない存在です。神様や人びととの結びつきの中にある限りにおいて、人が生きていくために必要と
されるものはすべて注がれる訳です。そして、そこには必ず豊かな実が結びます。その実の正体が愛です。わたしたち
人間が、神様との、また人びととの結びつきがあって初めて、生きているし、生きていくことができる、あるいはそれらと
の結びつきなくしては生きていくことができないと確信できれば、そこに必然的に愛という果実が芽生えるということで
す。しかし、人はそれを往々にして見失いがちです。すなわち、自分が幹につながっていないと生きられない枝に過ぎな
いということを忘れ、自らの力や意思や努力で生きようと、また生きていくことができると錯覚し、神様や人びととの結び
つきをないがしろにしがちです。そのとき、命脈が途絶え、その人は肉体的に生きているかもしれませんが、その人の
まことの命は確実に枯れていきます。
今日の福音書の中でイエス様が「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、
わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と語られました。ここに記されている「つながる」とい
う言葉は、ギリシア語ではμενω(メノー)という単語です。そして、今日の福音書に続けて、イエス様は「父がわたし
を愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と語りました。ここに出てくる「とど
まる」という言葉も、同じμενω(メノー)という単語です。イエス様につながることとイエス様の愛にとどまることが同じ
こととして表されています。イエス様の愛とは、イエス様が、あるいは神様がわたしたち人類を愛してくれた、そして今も
愛し続けてくれているということです。つまり、イエス様により愛されているということを信じることが、すなわちイエス様に
つながっているということです。わたしたちが神様との、また人びととの結びつきなくしては生きることができないと確信
できるためには、またわたしたちが愛という果実を人生において生み出していくためには、自分が愛されている存在で
あるということに気づくことです。
先日、ある子どもと教会で遊んでいた折、その帰りがけに、おばあちゃんから先生のお家に泊まっていくと言われ、子
どもは怒りの思いと必死な叫びをあげて、おばあちゃんとの結びつきが断たれてなるものかと、おばあちゃんに走りよ
り抱きつきました。子どもの心の中には、自分がおばあちゃんとのつながりなくしては生きていくことができないとはっき
り分かっていました。そして、そのような思いは、自分がおばあちゃんから愛されているとの確信から生み出されたのだ
と思います。それなのに、おばあちゃんからつながりを絶たれるような、そして自分は愛されているのだという確信を揺
らがされるような言葉を投げかけられ、子どもは怒ったのだと思います。その怒りは、それまで築き上げてきた自分、す
なわちおばあちゃんとつながることで、また愛されていることを実感することによって自らの存在意義を確立してきた自
分が崩されてしまいそうな恐れを予感してのことだと思います。そして、崩されまいという気持ちは、おばあちゃんに抱き
つくだけではもの足りないと、尚且つ結びつきをより確かなものにしようという行動に狩り立てました。子どもは、お家へ
と帰る車に一人で誰よりも先に進み、鍵のかかった扉の取っ手を握り、「開けて、開けて」と訴え、乗り込みました。その
様子は、自分はこれで大丈夫、何とか生きていけるぞと言わんばかりの姿でした。子どもにとっては生きるか死ぬかの
緊迫した場面を何とか行きぬくことができたという思いだったと思います。子どもは、これから先成長していくにつれ、も
っともっと力を蓄え、どんどん知識を吸収し、色々なことが一人で出来るようになり、おばあちゃんに抱きつかずとも自
立して生けていけるようになる筈です。そして、結びつきの大切さが、かつて自らの生死を分けるほどに重大なことであ
ったことを忘れてしまうでしょう。しかし、どれだけのことができるほどに立派な存在になったとはいえ、何年の齢を積み
重ね人生経験を増し加えたとはいえ、人としての本質は変わることがない筈です。その本質は、この子どもが教えてい
ることです。つまり、人はいくつになろうとも、赤ちゃんであれ、青年であれ、高齢者であれ、自分の存在意義の確立を
求めているということです。そして、自分を見つけ出すことができるのは、愛されているという実感の中からでしかできな
いということです。そして、そのような実感の中から、自分はつながりや結びつきなくしては生きられない存在であるとい
うことに気づけます。そのような実感の中から、幹につながっていなければ枯れるしかない枝にすぎない存在であるとい
うことに気づけます。「愛」という漢字は「心」と「受ける」という漢字から出来ています。自分の生の心のあり様が受け止
められたと感じることができたとき、愛されているという実感に包まれる筈です。そのとき、自分はこのままで存在してい
てよいと思うことができ、そのような自分に自信が生まれ、立ち上がることができ、変化する勇気が生まれます。それは
同時に、愛してくれた存在の重要性に気づくことでもあります。それは同時に、愛することの大切さに気づくことへとつな
がります。それは同時に、愛され。かつ愛するという、つながりや結びつきそのものへの大事さに気づくことでもありま
す。
ぶどうの木であるイエス様に、枝であるわたしたち一人一人がつながり結びついている限り、農夫である神様が養い
育ててくださることを信じたいと思います。
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