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聖パトリック教会1957年伝道開始
2006年9月17日発行 第175号
牧師 司祭 ミカエル 加藤俊彦
私は1987年3月に神学校を卒業し、牛込聖バルナバ教会と目白聖公会に勤務し始めま
したが、その4月に伝道師認可式を受けました。最近では聖職候補生に認可された人が
神学校卒業後に伝道師に認可されることはなくなってきました。その背景には、伝道師
という職務の必要性が時代的に見出せなくなってきたことにあります。そもそも伝道師
は欧米の教会には存在せず伝道地においてのみ生み出されました。英米の聖公会はキリ
スト教を伝道地に伝えるにあたり、英米の宣教師と現地人との間に立って、現地語は勿
論のこと伝道地の風習や伝統などを良く知る現地人奉仕者の働きが重要であると考え、
3聖職位とは本質的に異なる伝道師という職務を生み出しました。日本においてもこの
伝道師の働きが重要視され、伝道された当初は実際に多くの日本人伝道師また婦人伝道
師が英米宣教師のもとで活躍していました。しかし、英米の聖公会から離れ自立した管
区として日本聖公会が歩みだすにつれ、歴史的に担ってきた伝道師の意義が薄らいでい
くようになってきました。また現代の教会においては按手や認可された奉仕職以上に信
徒の奉仕が強調されてきたことも、伝道師の廃止に向かう方向を生み出しています。
さて、聖職按手を迎えるためには、まず司祭と信徒の推薦をもって聖職志願を教区主教
に提出し、聖職試験を受け、公開説教を行い、採点を一つの基準として按手の適否が判
断されます。私は1988年秋に執事試験を受け、めでたく合格し12月に按手を受けま
したが、司祭按手でつまずいてしまいました。それまでの人生で幼稚園、小学校、中学
校、大学、神学院の入試を経験しましたが、すべてストレートでパスし、そして神学院
の卒業試験、また執事試験にも合格しトントン拍子で人生を歩んできていました。しか
し1990年秋の司祭試験での不合格は、今思えば、受験に対するおごりの結果と言える
のかもしれません。管区共通聖職試験という司祭試験では、旧約、新約、教会史、教
理、礼拝、宣教牧会の6科目が3日間に渡って行われました。一科目3時間の試験は長
いと思われるかもしれませんが、実のところは時間が足りません。ですから受験慣れし
ていた私は、たとえ回答をしない設問があっても、確実に点が取れそうな設問に答え、
合格点ぎりぎりを確保する手段を取りました。従って、試験終了時に無回答の問題があ
ったのですが、それでも何とか行けるだろうと高をくくっていました。数ヵ月後、教区
の試験委員会に呼ばれ合否の判定を受けました。結果は6科目中で教理の試験のみが赤
点であり、委員さんたちはこの結果を受け、どのような判定を教区主教に答申するかを
話し合いました。そして1科目とはいえ落第点がある中で司祭按手に臨めば、私が将来
このことを背負っていかなければならなくなるので、教理の科目のみ来年の共通聖職試
験を受けること、及び再試を受けるにあたり個人教授を置くことが決められました。こ
の結果自体に私自身衝撃を受けることはなかったのですが、私の落第により、教会に通
っている親の周りにいる信徒が親に気を使わなければならなくなった事態を、またバル
ナバや目白の信徒の人たちが私に気を配らなければならなくなった事態を引き起こして
しまったことに対して悪いことをしてしまったという思いに駆られました。また私のこ
とを考えて按手延期を判断した委員にも単純に感謝する思いでした。その後、当時私が
一緒に働き私を司祭に推薦し私のことを最もよく知っていた先輩聖職は、この結果に対
して、試験の採点のみによって按手の適否を判断する基準に疑問を投げかけ、私はそれ
もそうだなと感じました。いずれにしても按手の延期は多くの先輩聖職や信徒の方々に
支えられていることを実感できた貴重な出来事でした。
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